2013年1月30日水曜日

ものを書くという化学反応 ―自分が他者に変化する―

ツイッターをやり始めて約二年、ブログは約二週間だが、それ以前と比較すると、圧倒的に書く量が増えた。特にここ数日は、長文を書くことが多かった。

基本的に、ものを書くのは好きだ。ツイッターだって、やり出したら止まらなくなる。推敲して、何かをじっくり書き連ねる、というよりは、反射的に思い浮かんだことをつらつらと書くという。そういう意味で、ツイッターは性に合っているし、Facebookはコミュニケーションが閉じすぎていて違うのかなという。ブログは、まあ、さほど読まれていないだろうという安心感(?)もあり、取り留めもないことを書き連ねている。

それで、書き続けていると、突如として、自分の意図しなかった方向、考えもしなかった論調に文章が組み上がっていくことがある。まるで、何かのキーワードで前後の言葉が化学反応を起こしたかのように。数日たって読み返してみると、まるで自分が書いた文章とは思えないような時もある。

読む、ということは、完全に書き手=他者とのコミュニケーションだ。小説を読むことや、他人のブログを読むことは、筆者との対話。それに対して、書くということは、自分自身との対話である。そこから自分が思いもよらない論調が出てくるというのは、どういうことだろうか。それは、文章として書き出すことによって、自分自身が他者に変化するということではないだろうか。

好きな哲学の理論に、ヘーゲルのアウフヘーベンがある.
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A2%E6%8F%9A
自身をテーゼとしたとき,書いているのは自分なので,それは自己の肯定,または意見の表明としか現れないはず.ただ,書き出す,という行為によって,テーゼとしての自分を離れ,他者として生まれ変わる,つまり自身の最大のアンチテーゼとして作用するのではないか.そこで,自己に対する新たな視点が加わり,アウフヘーベン…

と,かじっただけの哲学で議論するのはここらへんでやめにする.ものを書くと言う行為によって,自分自身ですら見つけられなかったことが見えるのではないか.その触媒となるキーワードは,それこそ書いてみなければ分からない.「何も書くことがない」ではなく,書き続けることで新たな触媒が見つかり,そこで化学反応が起こり,次を書くための新たな思考が生まれ出るのではないか.

調子がいいので先に進む.

こういうときに,物理の単純な法則を当てはめると,なんだか説明しやすい.化学反応,といいながら,物理学で話し出すのはどうかと思うが,物理の方が親しみが大きいので.慣性の法則.外力が働かない限り,止まっているものは動き続けるし,動いているものは動き続ける.世の中相単純ではなく,それにさらに摩擦が加わる.摩擦の大きさを決める摩擦係数は,静止摩擦係数>動摩擦係数.動いているものは止まっているものより動きやすいのである.

このブログも,この投稿で18本目?を迎える.毎日!と銘打った割には,すでに3, 4日サボっているのだが,書かなかった次の日は,どうも書く気が起きない.逆に,今日みたいに一日二本も(正確には,この記事の書き出しは昨日書いたのだが)書きたくなるときもある.分量が多いからかけない,というのではなく,書くのをやめてしまったから書き続けられない,という方が適切.まさに,書くことの慣性の法則.

で,こうやって書き続けると(今もそうだけど),いつの間にか書くことの摩擦がなくなって,とりとめがつかなくなる.自分の文章なのに,自分の手を離れてどんどん訳の分からない方向に行ってしまう.きっと,明日自分でこの文章を眺めると,何かいているんだこいつ!?となるに違いない.ただ,そう思えること自体,すでに昨日の自分より今日の自分が成長していると言えるのではなかろうか.

さて,酔いが回ってきてようなので,今日はこの辺で.

0 件のコメント:

コメントを投稿