2013年8月6日火曜日

思考を小学生に合わせ込むことで見えてくる個性

和太鼓や町内会で様々な年代の人間と接したり話したりする。そういう時には、なるべく自分の精神年齢をそれに合わせて変化させるようにしている。60代としゃべるときは60代になって、3歳児としゃべるときは3歳児の思考で(3歳児の思考なんてリンクできるの?というツッコミはなしで)。

そういう手法をとっているせいか、最近小学生に、道端で会うと大声で「ほりちゃーん!」と名前を呼ばれたり、別れ際にハイタッチを求められたりする。多分、彼ら彼女らにとって俺は近所のおっさん枠ではなく、愛すべきバカな同胞として向かい入れられている。だいたい30歳のおっさんが半分ムキになって小学生を追いかけまわしたりするわけで、いつも大人に「静かにしなさい!」と言われている奴らからすればおかしな人種なのだろう。

俺もただ馬鹿みたいにそういうことをやっているわけでもない。小学生レベルまで思考のレベルを落とすと得られるものも少なくない。

大人と彼ら彼女らは、まず身長が全然違うので、もちろん目線が違う。当然同じものを見ても見え方が違うわけで、可愛いと思うものもかっこいいと思うものも違う。それを「子供っぽい」と片付けてしまうのは簡単だ。逆に、その感性は大人が年月を過ごすうちに捨ててきてしまった感性とも言える。その感性に触れると妙に新鮮で懐かしい感じがするのだ。子供で癒される、というのはそういうところから来ているのかもしれない。

そして何より、その感性が子供各自によって全く違う。他人のものを欲しがる(兄弟などは特にそうだが)奴らもいるが、彼らは彼らなりの感性で「かっこいい」「かわいい」を決めている。個性なんてもの元々備わっているのだな、とつくづく思う。

なぜその個性が大人になって発揮されないのか。それを活かして伸ばす教育というのがいかに難しいかということだ。個性を大事に、といって好き放題やらせりゃいいかというと、そんなことはない。善悪の区別はきっちり理解、判断できるようにならなければならない。

そのためには当然それの模範となるべき大人が理解していなければならないわけだが。

重要なのは、個々の事象についていいか悪いかを理解させるのではなく、どういうことが良くて何がいけないのか、自ら判断できる力なり基準なりを学ばせることだと感じる。すべてのものごとを、最終的に決めるのは自分である。その決断の方向がいわゆる個性につながると思う。

日本の場合は、その判断を教える際に、どうしても「先生に怒られるからやめなさい!」「誰もそんなことやってないでしょ!」となってしまいがち。それが、確実に個性を奪っている。誰かがやっているから、やっていないからいい悪い、ではないのに、そう教えられているからその基準でしか判断できなくなるわけだ。

いったんこういう判断基準になると、いざ個性をもて、と言われても、単なる反発として「みんなと違うのが個性」と勘違いするんじゃないかと思う。個性ってのは、「自分がやりたいことを殺さないで育てる」ことにあると思うのです。これはまさに教育。個人の決断する力を育て、その決断を尊重する。その個人の判断基準は当然個々で違うわけだから、全員に「正しいことは正しい」といったような教え方ではいけない。教育自体を個性に合わせる必要がある。

ただし、そんなのを学校に期待するのは無理な話である。何十人もの生徒相手に教育を個性化するような人がいたら、多分その人学校の先生にとどまる器じゃない。かと言って親がそこまで客観的な教育を出来るかはわからない。だからこそ、個別塾が大学受験専門生を生み出す機関ではなく、個別の決断力を上げる、個性を育てる機関になるべきだと思う。塾=学校より詳しく勉強を教えてくれるところ、という縮図なのであれば義務教育の意義を考えなければならない。

子供たちは大人が思っている以上に考えているし、感じるし、独自の判断で多くの決断をしている。彼らをなめずに、一顧の人間として尊重し、その上で判断する能力を育てることが大事だと思う。

2013年2月19日火曜日

初心者だからといって基礎から教えるのは嫌だなぁ。

地域の和太鼓連に入って三年ほどたつ。入った頃は、うちの連自体もそんなに上級者!という訳ではなかったが、太鼓の頭の人脈のおかげで、様々な発表の舞台を与えられ、鍛えられてきた。おかげ様で、今年は松本城太鼓祭りに参加させていただくまでになった。ありがたいことである。

活動を続けていると、新しい人も入ってくる。今回、新たに三人ほどの奥様が我が連に加わった。新人が入るくらいに有名に?なったってことかな。

さて、私自身が入った時とは異なり、今では連自体の太鼓レベルも手前味噌ながらかなりのレベルに。少なくとも、一回も叩いたことない人間が、いきなりついて来られるようなレベルではなくなってきている。新人三人も、太鼓は最初にちょっと叩いて、あとはタイヤにガムテープを巻いた簡易太鼓で曲覚え。それから最後に叩く、と言った教え方である。指導は先週までは頭に任せっきりだったのだが、本日私が担当することになった。

もうすでに三、四回ほど練習に来ており、ある曲を一通りは叩けるはずなんだけど、何か楽しそうではない。好きで入ったはずなのに、と思ったが、まあタイヤじゃなぁ、とも思いつつ。でも、本当の理由は違うようだった。要は、譜面を追って叩くことばかりに精一杯になっており、それが曲なのか記号なのかわからない状態で叩いていたのだ。

そこで、まずは曲の入りから終わりまで、ぼんやりと全部教える。強弱を教える。曲の題名から、こういうイメージで叩くと教える。声を出そうと教える。そうして、30分ほどで、何とか一曲通して叩けるようになった。まあ、そこまで教える気はなかったんだけど、できたんだからまあいいか、ってんで、連のメンバーと曲を合わせてみる。前回までは譜面ばかりみてガチガチだったのに、今回は声を出し、何となくだが最初から最後まで通せた。大きな進歩である。

ここで言いたいのは、教わる側を決して侮ってはいけないということ。初心者だからここは難しいので、ここは飛ばして次をやりましょう、では、教わる方はいつまでも初心者。初心者だからここは難しいので、とりあえず間違ってもいいんでやってみますか!とすれば、できなくてもまあダメージは受けないし、できたら一気に成長する。初心者だから基礎をみっちり、ではなく、初心者だからこそ最初から山の上の方を見せておくのだ。1000mの山でもどこに行くのかわからなければ不安でいっぱいだが、2000mの山でも、最初から頂上が見えていれば頑張れるものだ。

野球だったら走り込み、水泳だったら泳ぎ込み、太鼓だったら打ち込み。この基礎が大事なのは当然。でもそんなつまらないものを「いつか役に立つ!」と延々とやらせても、つまらないし、それでその競技が好きになってもらえるとは到底思えない。まず好きになる。それで、好きになって基礎の重要さに気付かないなら、その人はそれまで。でも、その人はきっとその競技を嫌いにはならないだろう。でも、最初から基礎ばかりでつらくて辞めた人はどうだろうか?ハンパ者の烙印を押され、その競技を嫌いになるかもしれない。

昨今、体罰が問題になっているが、これは明らかに後者。辛い思いをすればいつか報われる。その方が、スポーツを楽しくやろう、デキる奴はどんどん頑張れ!よりよっぽど綺麗事。

人にものを教えるときには気をつけたいことである。

2013年2月17日日曜日

伝統は二年で形作られる ~仙台一高共学化,北海道大学応援団云々

高校は,仙台第一高校という,いわゆる伝統的男子校に属していた.校則もないし,私服もない.自主自律の精神で,自由を重んじる校風だった.それは非常に心地よく,好き勝手やらせてもらっていたわけで.

さて,その伝統的男子校も,2010年度から共学となった.これに関しては,宮城県教育委員会が共学化の話を持ち出してからというもの,OB,在学生から猛反発があった.要は「一高の伝統的な文化が失われる.ひいては自主自律の精神まで」という声.どうしてそこまで極端な話になるのか,と一高が育てた自主自律の精神を疑うわけだが,それはまたの機会に.

では,現状の共学化された新仙台一高はどうだろうか.Twitterで在学生と交流を持つ機会があったが,少なくとも自分たちが所属していたときとやっていることはまるで変わっていない.女子もエンジのジャージを着て,大声で校歌を歌い,ストームをし,下駄でアーケードを歩き回る.細かいところは変わっているんだろうけど,そこに差異を見いだせるほど一高文化には精通していない.

また,自分たちのころにはなかった文化もあるようだ.一高には独特の一高体操というものがあり,三年生がそれを一年生に教えるというのが自分たちの頃は伝統だった.今もあるのかと尋ねてみたところ,なんと一年生が三年生に土下座して教えてもらうように頼む,というのが「伝統だ」という.これには驚いた.そんな超体育会系の文化はなかった.五年下の,同じく一高卒の愚弟に聞いてみたところ,同じく「そんなことやったことない」と.わたしが卒業したのがもう十年以上前だということを考慮しても,この伝統は少なくとも五年以内に作られた伝統なのでは,と推定される.この伝統の是非は別として,変えるべきならそのうち無くなるだろうし,楽しかったら続くだろうし.それは外部がとやかく言うことではない.

大学時代は北海道大学応援団に属していた.100年以上続いている団体で,まさに「伝統の権化」と言われそうな骨董品のような団体ではある.しかし,内部的には様々な変革があるわけで.

その一つが,チアリーダーとの合同応援.北大の応援団は,他の大学の応援団とは違い,現在チアや吹奏を内部組織として持っていない.吹奏は応援吹奏団という別団体がある.これだって,自分が入団した頃はめちゃくちゃ仲が悪く,とても一緒に応援するというレベルではなかったのだが.それに加えて,チアリーダー部が一緒に応援したいと言ってきた.チアリーダー=応援と思われがちだが,大学のチアリーダーはほとんどが競技チア.つまり,大会に出るためにチアリーディングを練習している団体で,アメフトなどの試合に招待されて踊っている,という団体である(主観が多少入っているため正確ではないかも).その連中が応援したいと言うことで,少ないながらも応援団内は大議論.結局,紆余曲折の後に受け入れた訳で.

実際応援に行ってみると,近しいOBは「チアに応援しきらせるなんて,俺はどうかと思う」と.これは予想の範疇だった.が,年寄りは「女子が増えて結構」と.え?結局そんなもんか,と.伝統なんてそんなもん.年寄りには,「チアが入って応援がどうなる」なんていう感覚すらないのかもしれない.それを,「応援団とはこうあるべき」と考えていたのは,結局自分たちと,その近隣のOBだけだったという.現在チアと一緒に活動しているかは知らないけれど,あれは伝統というものを見つめ直す良いきっかけになったなと.

さて,タイトルに戻る.高校は三年間,大学は四年間しかない.二年続けばそれはもう在学生にとっては,学生生活の半分以上やっていることであり,それはすでに伝統となる.具体例.たとえば,ある部活で「今年から新入生は歓迎会の時に一発芸をやらせよう」としたとする.その部活にとって,それは新たな試みではあるが,新入生にとっては全てが新たな出来事であって,一発芸が昔からあったものなのかどうか判別しようがない.その新入生が二年目になったときに,「去年俺がやらされたし,今年もやろう!」となれば,それはすでにその部活の「伝統」となる.こうやって,えらく単純に,簡単に伝統というものは形作られる.これが十年続けば,もう明確な「伝統行事」になるわけで.こう考えると,伝統というものはさほど大したものではない,という気もする.

ただし,伝統は続けば続くほど形骸化する恐れがある.上の例で言うと,最初は「緊張している新入生に一発芸をやらせて,部活の雰囲気に入りやすくしてもらおう」とい意図で始まったとしても,これが伝統行事となってしまうと初期の精神は失われ,「おもしろくないやつは罰ゲーム」という流れにもなりかねないわけで.「俺の頃はあんなにおもしろかった」と懐古主義に陥って,下を押さえつける輩も出るだろう.本末転倒も甚だしいが,案外こういった現象は所々にあるのではないだろうか.

では,なぜこういった伝統は変わっていかないのか.これは,変える方が続けるより難しいからだ.新入生歓迎会で一発芸をやらせておけば,場はつなげるし,上級生は満足するし,自分も偉そうにしていられる.これを変えるとなったらどうだろう.「何で今年はやらせないんだ!」という上級生の突っ込みにも耐えなければならないし,新人とより会話を持たねば場ももたない.そんなリスクを冒してまで変えるメリットを見いだせない,ということだろう.「伝統を守る」というのは「伝統を変えるのは面倒」ということの裏返しである.

伝統を批判しているわけではない.伝統の形骸化を批判している.伝統とは本来,その精神を引き継ぐもので,形式を引き継ぐものではない.自分の日常でも,継続的にやっているものは一体何のため?と考えてみると,案外「続けているし,やめるのが面倒」というものが多いことに気がつく.ライフスタイル,なんてかっこつけた言葉がはやっているが,スタイルなんて意思さえあればいくらでも変えられるのである.継承すべきはそのスタイルが持つ精神である.

…俺も「夕飯で酒を飲む」という形骸化したプロセスを見直そうかな.

2013年2月9日土曜日

日本酒飲み党

日本 酒飲み党 公約

私がソーリ大臣になった暁には、

まず成人を18歳からにし、選挙権、飲酒権を18から与えます。

何ら財源になっていない酒税を撤廃します。

あるチュー及び飲酒事故を撲滅すべく、教育課程に、正しい酒の飲み方を加えます。

飲酒運転は見つけ次第免許取り消し、かつ10年間の禁酒プログラムに参加してもらいます。また、飲酒運転発生の根本対策として、代行補助金制度を設けます。

酒を飲めない人に飲酒を強要した場合、アルハラ罪として一ヵ年の禁酒を義務付けます。

酒にかかる関税を0にします。

肴は炙ったイカでいいです。

「飲んだ時にした約束なんて!」と、忘れたからといって約束を保護にした場合、違約金を払ってもらいます。

「酔っているからってひどい!」と、酔っぱらい相手にまくし立てる素面の人は、ちょっと面倒です。

お酒はぬるめの燗がいいです。

飲み放題にビールと言って発泡酒を入れるのを禁じます。発泡酒の場合は必ずその旨書くこと。

サッポロソフトは工業用アルコールに分類します。

道で寝ている酔っぱらいには優しくしましょう。

飲み屋のトイレの数は席数に応じて比例配分制とします。

酒ではなく、酒を飲む場が好きだ、という人は、飲まずに僕にお酒をください。

浦霞禅は最高の食中酒だと思います。

「駅前」という言葉に心躍ります。

「ウタゲジャー」を世界共通の乾杯言語とします。

云々

とまあ、何が言いたいかというと、みんな楽しく飲もうよってことです!

2013年2月6日水曜日

余白のないノート −スマートフォンを持つことで、暇な時間という余白を失っている

先日、出張帰りの電車の中で、スマートフォンの電池が底をつきた。たかだか半日の出張だし、電池が切れるなんてことは想定していなかったので、読む本なども持参しておらず。さて、どうしたものか。思えば、つい十五年前までは、こんな状態が普通だったんだなぁ、と考える。

ニュース、音楽、動画やゲームなど、あらゆるコンテンツが、どこにいても手に入る。クラウドサービスを使えば、同じものがどこでも閲覧できる。メールやSNSで、地球上のどこにいても他人とつながっていられる。便利だし、その便利さを否定する気は全くないわけだけれど(かく言う私もGoogle先生に魂を売っているわけで)、このせいで、人間は暇な時間の過ごし方を忘れてしまったのかな、と思う。

先週末は、沖縄で過ごしていた。やることが色々とあって、割りと忙しい…はずだったのだが、沖縄の気候、人がそうはさせない。時間の流れは非常にゆっくり。何をするわけでもなく、ぼーっと過ごしているだけで、いつの間にか夜に。何かをなさねば!という強迫観念はなく。リラックスとはあんなことを言うんだろうなぁ。

対して、その前日までいた東京。満員電車に詰め込まれた無数の乗客は、3分おきに電車に飛び乗り。階段が近い入り口付近はぎゅうぎゅう詰め。小走りに近い速度で道を歩き、顔は厳しく、飲み屋はくたびれたサラリーマンのグチであふれている。そういう無数の人間の努力によって日本経済は支えられているわけで、ムゲに批判はできないのだけれども。でもそれが、本当に持続可能で創造力のあふれる社会につながるのか、とふと疑問に思った。

ノートにアイデアを書き込むためには、余白が必要である。スマートフォンという高性能機器を常に持ち歩くことで、暇な時間の過ごし方を忘れた日本人は、余白のないノートのようなものだ。

2013年1月30日水曜日

ものを書くという化学反応 ―自分が他者に変化する―

ツイッターをやり始めて約二年、ブログは約二週間だが、それ以前と比較すると、圧倒的に書く量が増えた。特にここ数日は、長文を書くことが多かった。

基本的に、ものを書くのは好きだ。ツイッターだって、やり出したら止まらなくなる。推敲して、何かをじっくり書き連ねる、というよりは、反射的に思い浮かんだことをつらつらと書くという。そういう意味で、ツイッターは性に合っているし、Facebookはコミュニケーションが閉じすぎていて違うのかなという。ブログは、まあ、さほど読まれていないだろうという安心感(?)もあり、取り留めもないことを書き連ねている。

それで、書き続けていると、突如として、自分の意図しなかった方向、考えもしなかった論調に文章が組み上がっていくことがある。まるで、何かのキーワードで前後の言葉が化学反応を起こしたかのように。数日たって読み返してみると、まるで自分が書いた文章とは思えないような時もある。

読む、ということは、完全に書き手=他者とのコミュニケーションだ。小説を読むことや、他人のブログを読むことは、筆者との対話。それに対して、書くということは、自分自身との対話である。そこから自分が思いもよらない論調が出てくるというのは、どういうことだろうか。それは、文章として書き出すことによって、自分自身が他者に変化するということではないだろうか。

好きな哲学の理論に、ヘーゲルのアウフヘーベンがある.
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A2%E6%8F%9A
自身をテーゼとしたとき,書いているのは自分なので,それは自己の肯定,または意見の表明としか現れないはず.ただ,書き出す,という行為によって,テーゼとしての自分を離れ,他者として生まれ変わる,つまり自身の最大のアンチテーゼとして作用するのではないか.そこで,自己に対する新たな視点が加わり,アウフヘーベン…

と,かじっただけの哲学で議論するのはここらへんでやめにする.ものを書くと言う行為によって,自分自身ですら見つけられなかったことが見えるのではないか.その触媒となるキーワードは,それこそ書いてみなければ分からない.「何も書くことがない」ではなく,書き続けることで新たな触媒が見つかり,そこで化学反応が起こり,次を書くための新たな思考が生まれ出るのではないか.

調子がいいので先に進む.

こういうときに,物理の単純な法則を当てはめると,なんだか説明しやすい.化学反応,といいながら,物理学で話し出すのはどうかと思うが,物理の方が親しみが大きいので.慣性の法則.外力が働かない限り,止まっているものは動き続けるし,動いているものは動き続ける.世の中相単純ではなく,それにさらに摩擦が加わる.摩擦の大きさを決める摩擦係数は,静止摩擦係数>動摩擦係数.動いているものは止まっているものより動きやすいのである.

このブログも,この投稿で18本目?を迎える.毎日!と銘打った割には,すでに3, 4日サボっているのだが,書かなかった次の日は,どうも書く気が起きない.逆に,今日みたいに一日二本も(正確には,この記事の書き出しは昨日書いたのだが)書きたくなるときもある.分量が多いからかけない,というのではなく,書くのをやめてしまったから書き続けられない,という方が適切.まさに,書くことの慣性の法則.

で,こうやって書き続けると(今もそうだけど),いつの間にか書くことの摩擦がなくなって,とりとめがつかなくなる.自分の文章なのに,自分の手を離れてどんどん訳の分からない方向に行ってしまう.きっと,明日自分でこの文章を眺めると,何かいているんだこいつ!?となるに違いない.ただ,そう思えること自体,すでに昨日の自分より今日の自分が成長していると言えるのではなかろうか.

さて,酔いが回ってきてようなので,今日はこの辺で.

自分が悪い、という結論を導くことで、逆にストレスを解消する。

仕事でも何でも、一番困難な課題は人付き合いだ。人付き合いというより、人をいかに使うかということ。人にいかに自分の考えを伝えるかということだ。コミュニケーションと言われるものか。

人間、生きていく上で、他者と関わることは必要不可欠。全く知らない人と関わることもあれば、親しい人と付き合うこともある。それぞれに、難しさがある。

親しい人との付き合い方も難しい。親しいと、お互いの前提条件がなまじっかあるだけに、どうしてもなあなあになりがち。そこから誤解が生まれる。自分としては当然やってくれると思っていたことが、相手は当然のごとくやっていなかったり。そんな時は、親しいだけに数倍ストレスがたまる。

そんなストレスを生まないために!なんて本はいっぱいある。では、実際に生まれたストレスはどう処理すればいいのだろうか?逆説的だが、「自分が悪かった」と思い直すことである。

相手の間違い、不手際を考えるというのはどうか。人間、過去に起こったことを振り返る時ほどネガティブな瞬間はない。他人の不手際を上げるのは、まさに過去の出来事、さらにはネガティブな事項を探し出すことになる。相手の悪いところは、いくら数えても足らない場合も。しまいには数年前に貸した金まで持ち出して…なんてこともよくある。思考は常に後ろ向き、そしてストレスを感じる時間は長い。

では、相手の良い所を探すというのはどうだろう。ポジティブではあるけれど、人間、ポジティブな事項というのは探しにくいので、すぐに尽きてしまうだろう。君いいね!なんてほめて、相手が逆に怒る場合もあるだろう。悪くはないが、先に進むには、両者の信頼関係が必要。それがないと、単なる馴れ合いにもなりかねない。

自分の良い所を探すのは?一見、ポジティブになるには良さそう。しかし、自分の実績をともすると美化してしまって、自分偉い、だから俺は悪くない、という何とも自己中な思考になりがち。相手からすれば、お前悪いだろ!反省しろ!とはらわた煮えくり返る思いかもしれない。

そこで、自分が悪い、と考えるわけだ。

誰しも、自分の悪いところなんて考えたくない。が、それでも振り絞って、自分が悪いと思った所をさがす。なるべく迅速に。そこで見つかった点は、自分の力が及ぶ範囲、自分だけの力で解決できる範囲である。そこを、まず自力で解決するわけだ。振り返りたくないものを振り返るので、時間は短いし、治すという方向は前を向いている。他人だとこうはいかない。なぜなら、自己の分析のあとに、一番困難なコミュニケーションの過程が加わるから。命令口調で言わなきゃならない部下もいれば、恐る恐る提言しなければならない上司もいるだろうし、なあなあになってしまう友人もいるだろうし。そこに時間を費やすよりは、まず自分の間違いを認め、改善する。意外とそこが解決すると、全体がまるでせきをきったように流れ出す場合もあるから不思議。ストレスを感じる時間は最も短くて済むわけだ。相手も、あいつ自分の間違いにようやく気づいたな?となるわけで。

まあ、こんなにうまく行くかはわからないが、少なくとも結論を自己解決に持っていくというのは、どうしようもないストレスを封じ込めるには最高かと思う。根本的に俺がポジティブだからかもしれないけれど。

2013年1月26日土曜日

レッテルを貼るということの大きな弊害 -ゆとり世代というネーミング

下記のようなまとめが作られるくらい,ゆとり世代というものに体するイメージは悪い.
http://matome.naver.jp/odai/2128321591083754201

当然,ゆとり世代を作ったのは,ゆとり教育を受けていた本人たちではなく,その教育を作り出した大人たちである.自分たちが作り出した世代に対して,勝手に「これだからゆとりは…」なんて言うのは,身勝手も甚だしい.

とはいえ,人間というのは,レッテルを貼り,分類をしてグループにすることで安心する動物だ.出身地,血液型,性別,年齢等々.O型だからおおざっぱ,女は群れるなどなど.あげていけばきりがない.しかし,そうやってレッテルを貼ることがコミュニケーションの断絶につながっていく.

たとえば,学校を想定してみる.ある年代が,総じて不良が多い学年だったとしよう.その学年は「不良が多い学年」というレッテルが貼られる.どんなにまじめな人間であろうと,それは「あの学年にしてはまじめだ」という評価になる.もし一瞬でも,社会が感じる悪の行為を行ったなら,「結局あいつは同じ穴のムジナ」ということになるわけで.ある集団にレッテルを貼ると言うことは,個というものを殺し,評価をゆがめるものとなる.そう評価された方はどうか.正当に評価されないとしたら,腐ってしまう.

もちろん,個に対するレッテルも同じ.ジャイアンがよく言う.「のび太のくせに生意気な」と.のび太のした行為がいかに良いことであろうと,だらしなくて弱い,というレッテルが貼られているのび太がやると,それは=生意気となってしまうわけである.

思えば,世の中はレッテル貼りにあふれている.「マスコミはだめだ」「教育委員会はだめだ」「東電は何をやっているんだ」などなど.

評価されるべきは,団体や個人に貼られているレッテルではない.行われている行為そのものである.

話は戻ってゆとり世代.今,ゆとり世代と呼ばれている子供たちと仕事以外で接する機会がある.彼ら彼女らから言えば,ゆとり教育をされていること,されてきたことは迷惑でしかない.教科書自体にそれ以上のことを学べる環境が整っていない.彼ら彼女らも,それなりの教科書を渡されればきちんとした知識を身につけていた人間なのである.また,世間で言われているような積極性のなさや,指示待ち,誘いを断る,なんて特徴は,少なくともわたしが知っているやつらにはない.ちょっとこつを教えてやれば,すぐに吸収する.彼ら彼女らは教育に飢えている.

語りたいのは,ゆとり教育がだめだった,という話ではない.それを評価しきれずにもてあまして,「これだからゆとり世代は」と語る大人たちの方である.

最初に貼ったリンクの内容を読み返してみる.「個性を大事に」と大人は言う.なのに,個性的な人間にたいして「礼儀がなっていない」という.一部の大人は「飲み会は時間の無駄」というのに,「上司の飲みの誘いは断る世代」とまるで悪者扱い.ではゆとり世代と呼ばれる人間たちと,この批判をする大人たちは真剣に話をしたことがあるのだろうか.真剣に接せず,ただ自分の今までの価値観,つまり自分に対するレッテル,を,若い世代に当てはめようとして,それに外れるもの,自分には理解できないものを,「ゆとり」と呼ぶことによって安心感を得ているだけではないだろうか.

この前見た,山本五十六の映画のなかで,繰り返し五十六が唱えていた言葉.「次代を担うのは若者」ということ.調べてみたら,このようなことも言っていたそうだ.

「いまの若い者は」などと、口はばたきことを申すまじ

実年者は、今どきの若い者などということを絶対に言うな。
なぜなら、われわれ実年者が若かった時に同じことを言われたはずだ。

今どきの若者は全くしょうがない、年長者に対して礼儀を知らぬ、
道で会っても挨拶もしない、いったい日本はどうなるのだ、などと言われたものだ。

その若者が、こうして年を取ったまでだ。
だから、実年者は若者が何をしたか、などと言うな。
何ができるか、とその可能性を発見してやってくれ。


本当にそう思う.ゆとり教育を受けてきた世代が,今後大人になるときに,反発からものすごい教育システムを生み出す可能性だってある.それを単なる大人の馬鹿みたいな「ゆとり世代」なんてレッテルによって,可能性をつぶすことはばからしい.「しかられるとすぐへこむ」というのを認識しているのなら,褒めて伸ばせば良いだろう.変わるべきは彼ら彼女らではなく自分自身であると言うことをまず認識すべきだ.

かくいう自分も,やはり分類が好きな人間であった.女はこうだ,○○サークルのやつは終わっている.ただ,逆に自分も同じように評価されていると感じたときに,それをやめることにした.やめることによって気づいたのは,自分自身に対してもレッテルを貼り,限界を定めていたと言うこと.人を見る前に,まず自分自身に対して考えるべきだと言うこと.

レッテルというメガネを外し,その人の行為に注目しよう.だめなことはだめだし,いいことはいい.そこをしっかりと指摘し,互いに成長すること.そういうことを大事にしたい.

2013年1月23日水曜日

アクティブな引きこもり

よく「連休になると外に行かないともったいない!」とか、「天気がいいのに家の中にいるなんて!」って人がいる。私にはそういう心境は正直わからない。長い休みこそ家でこもりたいし、天気がいいほど外に出たくない。単なるあまのじゃく、と言うのではなく、実際に引きこもり気味なのかもしれない。

引きこもりのイメージって、オタクで暗い感じかもしれない。俺はある意味(仮面ライダー好きだったりゲーマーだったり)、オタクかもしれないが、少なくとも暗くはない。アクティブな引きこもりと言ったところか。

当然、仕事も遊びもそれなりにやる。旅行も好きだし、誘われれば飲みにも行く。でも、自ら進んで外に出たいわけではない。家にいられるなら家で1日ぼーっと。起きてはいるけど、本を読んだり、お茶を飲んだり、掃除したり…そんなことして、何もしないで過ごす1日がすごく大事。だから休みの日は基本的に引きこもり。普段しゃべりすぎってのもあるけど。

現代人の時間の流れって速すぎる。効率化、効率化で、どんどん時間単位でできることは増えているのに、一向にやることは減らない。体の中の時間感覚が、効率化に伴って、速くなっているんじゃないか。

せめて、休みの日ぐらい、時間を忘れてのんびり暮らすのが、一番自然なのではないか。

2013年1月19日土曜日

口実の重要性

日本全国酒飲み温度
http://casime.com/i/46364

良い歌だなぁと思う。特に後半、11月の「何もないけど」や、12月の「どさくさ」とかたまらない。酒飲みの感じが出過ぎていて。

そうは言っても、飲む口実というのは大事である。

今日は○○だから仕方ないよね、といった、自分が飲んでいるのは、意志ではない、お祝いだ!という感覚。言い訳。

それともう一つ、飲みに口実を与えると、飲み会自体が生き生きと輝き出す。
実際やったことある飲み会。
●ひな祭り飲み会(男三人)
●旧忘年会(旧暦の大晦日)
●火曜日飲み会(何か火曜日は飲みたい)
●節分(言わずもがな)
●忘期末会(四半期に一度)
…などなど。
あげればきりがないが、これらも、名前がなければ単なる飲み会。ただ、名前をつけるだけでがらっと変わる。例えば旧忘年会であれば、2月みながバレンタインに浮かれている頃、あけましておめでとう!とかバカみたいに叫ぶ。例えば節分なら、鬼役を作って豆を投げる。例えば火曜日なら、「だって今日は火曜日だよ!」と謎の理由で盛り上がる。テーマがあれば盛り上がる。そのためにも口実は重要だ。

思えば、日本人は昔からこうやって口実を作って、諸行事を楽しんできたのではないか。季節の変わり目。初物。お祭り。なんやかんや、縁起がいい!といって酒を飲む。うまいものを食べる。外国の行事も訳もなく取り入れる。クリスマス、ハロウィン、バレンタインデー。なんだかんだ文句を良いながら、みな楽しんでいる。全部、日本人の口実好きによって広く受け入れられているのではないだろうか。

ということで、今日は新年会。仕方ないなー飲んでくるか!

2013年1月18日金曜日

子供を侮る無かれ

町内会やら、他人の家に遊びに行ったりで、割と子供と接することが多くなった。小学校入学前~低学年程度の子。

もう30にもなって、いい加減若者って感じでもないので、子供と接するときの一人称は「おっさん」を使うことにしている。パパ、ママ、お父さん、お母さん、おじさん、おばさんなどを呼び慣れている子供にとって、なんの障害もなくおっさんと呼ばせてくれる俺は貴重な模様。要するに、完全に遊ばれる。

基本、天上天下唯我独尊の性格。他人に気を使うというのは苦手だけれど、子供は未知の可能性があるので、何とかそれを引き出して知見を我がものにしてやりたい。そんな一心で、いかに子供に心開かせるかという工夫をこらす。

子供と接するときに大事にしていること。

まずは、目線を同じにすること。物理的にも精神的にも。上から目線で威嚇しても、子供は心開かない。姿勢を低くする。これ重要。高さは、遊ぶ時には発揮するが、例えば本を読む、ご飯を食べる、そんなときにはなるべく子供と同じ目線になる。

子供扱いしない。赤ちゃん言葉を使ってみたり、何でもかんでもかわいいと言ってみたり、甘やかしたり。そんなことは絶対しない。この前は、簡単などうぶつしょうぎみたいなもので6歳児と勝負。まあ、当然普通にやって負けるわけがないので、いろいろハンデは与えた。それでも俺が勝つので、ちょっと教えてやったりして勝たせたら、その子が言ったのは「今のは教えてもらったからつまらない」と。つまり、ハンデを受けるのは実力差だから認めるが、教えられるのはプライドに関わるわけだ。子供だと思って子供扱いすることが、逆にその子を傷つけている可能性もある。

怒るところは怒る。子供は割と理不尽に殴ってきたりする。それは、例え大人であっても痛いのだ、ということを知らしめる。ルール違反をしたら、ゲームで負けにする。泣こうがわめこうが、ルール違反は覆らないということを、きっちり教えるべき。
前に、俺が何回あしらっても突進してきて、仕舞いにはけ飛ばそうとする子供がいた。そいつが俺を蹴ったあと、座らせて、にっこりわらってほっぺたを軽くはたいてみた(はたいたといっても、触ったくらい)。「殴られたら痛いんだよ」って。わがまま放題の程度を知らない子供には、きちんと痛い、という感情を教えないとと思う。(体罰と何が違うか、と言われると、若干苦しいが、少なくとも俺は対等なレベルで話していた、とは言える。)

そうやって、レベルを合わせて接すると、子供は本当に様々な表情を見せてくれる。俺が絵本を読んであげていたのがいつの間にか俺が読み聞かせられていたり。子供から学ぶことは多い。

転じて、これは一般的な教育にだって当てはまる。先輩だからといって、上から話さない、相手を対等に扱う、叱るところはきっちり叱る。そうすれば、相手だって成長して、そのうち自分を追い越していくだろう。

子供だろうが、後輩だろうが、若いものを侮る無かれ。彼ら彼女らは、自分より若い分、それだけ多くの可能性を秘めているのだ。

教材費増額で「理科好き」を増やしてどうなるか.

2013年度予算案の大筋が発表された.内容は今後精査する予定だが,こんな記事が目に飛び込んできた.

理科好きの子ども育成を…教材費の大幅増額検討
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20130107-OYT1T00598.htm
記事では,
”「理科好き」の子どもを増やすため、小中学校の実験や観察で使う顕微鏡や人体模型などの教材購入にあてる補助金を大幅に増額する検討に入った。”
と述べている.

果たして,教材費の増額で「理科好き」は増えたとして(それもかなり疑問だが),それによって生まれた「理科好き」は,科学技術創造立国につながるのか.その点について述べたい.

教材が増えるとどうなるか.さまざまな実験器具やセットが増えることで,自由度が上がるように思えるかもしれないが,それは逆.むしろ,科学としての自由度は下がる方向に行く.

科学とは未知なるものへの探求である.未知なるものを発見しようとするときに,誤差のない最新鋭の器材を使用し,教科書通りに実験をすると,まるで教科書に書いたような結果が出る.それがいったい何の役に立つというのだろうか.自由なように見えて,それは答えがほぼ一通りしかない,不自由な活動である.科学は,用意された教材で発見して喜ぶのではなく,発見するためにどういうものを使うか考えるところに意味がある.用意された教材で見られるのは,未知ではなく既知.それは科学ではなく,単なる試験の模範解答にすぎない.

理科を好きにさせる活動として,でんじろう先生を見てみると,どこに高価な実験装置が出てくるだろうか.段ボールとドライアイス.これで十分なのである.

自由研究大賞というのがあるそう.
http://japan.discovery.com/summer/
大賞の研究内容は,
"夏休みの約1ヶ月間、毎日自宅の庭先でボールを数種類落とし、月の満ち欠けとボールの落ちる位置がどう変化するかをまとめた作品。"
聞くだけで感激する内容.これを単なる「理科好き」で片付けて良いのだろうか.

審査員の総評は
”その努力の源は、飽くなき探究心が原動力となって引き起こされたものです。そして、探究心は努力の源だけではなく、研究の楽しさも生じさせます。
努力と楽しさがスパイラルに相互作用し、このような素晴らしい自由研究が完成したのでしょう。
入賞した人も入賞できなかった人も、「自分の知りたいことを楽しみながら研究できた人」は、それだけで大成功なのです。”
まさにその通り.どこにも,彼らが“理科が好き”や“研究が好き”とは書いていない.“飽くなき探究心”と“努力”,そしてそれから生まれる“楽しさ”が優秀な研究を生み出しているのだ.

教材費を増やすことで,確かに理科というものに興味を持つ人間は出るかもしれない.ただし,それはあくまで“これとこれを組み合わせたらこういう結果が出る”という,教科書通りの答えが出る理科が好きな人間だ.“理科を好きになってもらうのが第一歩”と言うのは見当違い.実際の科学は,疑問を持つ→仮説を立てる→検証するための手法を考える→実験→結果→考察といった,ある意味面倒な課程を経る必要がある.理科が好きになったからと言って,このような思考が身につくわけではないし,いわんや教科書通りの実験をや.

こういう思考を持った人間を育てるのに,“理科”や“理系”というくくりはかなりの障害となる.最も論理的に成り立つものは数学.新たな発想を生む観点を身につけるためには,想像力や読解力ももちろん必要.文学的素養も必要となる.そういった,全人教育が必要となる.そこを読み間違えると,“理科好き”を増やすことで,“理科が苦手”な人間を大量生産することにもなりかねない.

フィンランドの教育内容を,この前NHKでやっていた.
http://www.nhk.or.jp/ichiban/backnumber/b09/index.html
もとは詰め込み教育だったフィンランドが,現在どのような教育を実施しているか.要点は,自分で考えさせることおよび全員正解であった.こういった子供たちが,その成長過程の中で「理科好き」になったとしたら?日本がこれから作ろうとしている「理科好き」と戦ったときに,どうなるだろうか.結果は明白.失敗を恐れず,自分で考える力を持った人間にかなうわけがない.これでは,科学技術創造立国にはほど遠い.

日本でも当たり前のようにこれと同じことを試みている.言わずとしれた「ゆとり教育」である.思想自体は全く間違っていないと思っているが,具体策がまずかった.あとは,現場発信ではなかったこと.それが問題.結局,授業時間を削るだけの施策になってしまった.「教師が悪い」とか問題ではなく,お上の浮き世離れした命令ありきだったところが問題.

では何をどうするべきか,まで言及したいのではあるが,それを語り出すと話がだいぶ明後日の方向に飛んでしまうので,今日はこのへんで.

2013年1月16日水曜日

飲みとSNSで広がるコミュニティー

(毎日更新、が目標なので、今日は割と短いですが。)

いろんなところで飲み歩いて、しかもひとりでも結構飲みに行く。そうすると、割と同じようなことを考えている人はいるもので、カウンターに座るといろんな出会いがある。そんな出会った人とは、以前は本当にそれっきりというのが多かった。わざわざ電話番号やメールアドレスを交換する程でもなかったから。

ところが、今はfacebookやtwitterといった、ゆるーいコミュニティーがある。「メルアド交換しよ!」とは厚かましい俺でもなかなか言えないけど、「へー、Twitterやってるんだ」は、割と聞く方も聞かれる方もハードルが低い。元々の、ハードルフリーな性格に、SNSという武器を手にして、どんどん世界との関わりが増えていく俺。
恐ろしいね。

ということで、今日は焼鳥屋で知り合った20歳の美容師の男子と新年会。酒を飲まなきゃ絶対に会わなかった人種とこうして飲むのも乙ですね。

2013年1月15日火曜日

雪道で歩く際のリスク低減

そんなに雪国でもない松本も、
昨日は大雪に見舞われた。
昨日の大雪。普段は雪が降らないような地域も雪でおおわれて、転倒したりした人も多いのではないだろうか。
大学時代は北海道で、自宅→学校→バイトと、雪道を1日一時間半程度歩いていたため、雪道の歩き方についてはかなり研究した。そこで得た知見をまとめたいと思う。

●転ばないために
どんなに注意していても、転ぶ時は転ぶ。ブラックアイスバーンになっていれば、どんな雪道常連でもひっくり返る。ただ、歩き方をちょっと注意すれば、リスクは低減できる。

1. 靴は長靴
靴は長靴が一番。適度にギザギザがついているのはもちろん、すれ違い時に効果。大抵、雪国以外で雪が積もったときは、歩道が異常に狭くなるので、すれ違い時にどうしても深い雪の中に足を入れることになる。寒い上に足元が濡れると最悪な気分。その点、長靴なら、進んで道を譲ってあげられる。ただ、普通の長靴は非常に薄く、寒いので注意。

2. 重心は前に
基本的に人間は尻が重いため、普段歩きと同様に歩くと、若干重心が後ろよりになる。そのため、かかとが着氷した瞬間に、後ろにひっくり返る転び方が多い。防ぐためには、体を前屈みにすると同時に、つま先に体重をかけるのがよい。

3. 歩幅は小さく
歩幅が大きくなると、どうしてもかかとから着氷しがち。そうなると転ぶリスクが高まる。歩幅小さく、つま先から、これが基本。

4. 若干内股
スキーでもボーゲンは内股。がに股にすると、足が広がる方向にいくので、転ぶリスクは否応なく高まる。内股になろう。普段がに股の人は、足先をまっすぐ向けるだけでもだいぶ違う。
これらを実践すると、まるでペンギンのような歩き方になる。その通り。自分がペンギンになったつもりで歩く。

5. 横向きの斜面に気をつける
どんなに前体重に歩いていても、横方向の滑りには対処できない。歩道と道路の境目のように、進行方向に対して垂直方向に斜めになっている部分はかなり危険。そういう道で、しかも凍っていた場合、ほぼ転ぶ。なので、そういう進路ははじめから選ばないのが得策。君子危うきに近寄らず。

●外的要因から身を守る
自分がいくら転ばないようにと思っても、外からとばっちりを受ける可能性があり。歩行者は最も弱い存在。自分の身は自分で守ろう。

1. 車道は歩かない
歩道があまり除雪されていない場合、どうしても雪が溶けている車道を歩きたくなる。雪国なら割と車も雪道運転になれているが、そうで無いところは、熟練ドライバーも初心者並みと思った方がよい。また、除雪が不十分だとわだちにタイヤをとられて、あらぬ方向に車が向かってくる危険性があり。なので、車道は歩かないように。できれば通勤路・通学路を変更してでも歩道のある道路。どうしてもという場合は、できるだけ交通量の少ない道路を歩く。

2. 自転車は凶器。すれ違い時は止まる
凍ったり雪の積もっている歩道を走る自転車は、ある意味自動車よりたちが悪い。すれ違いのときは、いくら歩道が歩行者優先だといっても、引かれたらおしまいなので、脇にそれて道を譲ろう。逆に、積雪時には自転車には絶対に乗らないように!

3. 周りに気を配る
途中で立ち止まって、前後左右を確認する、道路状況チェック等、最大限歩くことに神経を集中する。通常時でも危険だが、積雪時は特に携帯をいじりながらの歩行はしない!

●その他
無理な横断は避けよう。車道は自分が思っている以上に滑る。無理に横断しようと駆け足になると、道路のど真ん中で転ぶというリスクも。まだ横断歩道だったらいいが、横断歩道のないところだと、ブレーキがききづらい車に引かれることも考えられる。普段もそうだが、積雪時は特に、青信号の横断歩道をわたることを徹底しよう。

転ぶだけのリスクだったら、まあほっといてもいいかなという気もするが、積雪時は車や自転車が予想外の動きをする可能性あり。外的要因に注意しながら、焦らず雪道をあるこう。

2013年1月14日月曜日

スマートフォンのスマートじゃないところ。

スマホを使い始めて一年ちょっと。スマホ自体、というよりも、スマホに変えたことにより、ネットワークの便利なツールをいろいろと使うようになった。生活も大きく変わったというのが事実。自分のやりたいことに携帯をあわせるのではなく、スマホができることの中から、自分が利用できることを見つけるという感覚。アプリをインストールして自分好みに端末をカスタマイズし、利用するということ。そこがメリットかなと思う。

ただ、弊害もあるかなと。スマートフォンが普及して、世の中いろいろ 便利にはなったけれど、思考の訓練をすべき 若いうちから(例えば高校生くらいから)、すぐに「スマホで調べればいいじゃん」的な考えになってしまったらどうなるか。Google先生の検索精度があがっていくとともに、人間の方がどんどん スマートじゃなくなっていくのではなかろうか。今でこそ、自分はスマートフォンなしでは生活できない感覚になっているが、高校生のころからこんなものがあったら、いったい自分はどうなってしまったんだろうかと思うと、ぞっとする。

自分が子供の頃は、そもそもインターネット 自体が普及していなかった。料金も定額では なかったし、接続してもすぐに切るといった次第で。ゲームの攻略法を探すにしても、今 ならGoogle先生に聞けば、これでもかという くらい攻略法が出てきて、むしろそれなしだ とこせないのではないかというスペックのも のさえ。昔は、分厚い攻略本を買うか、自力で裏技を探すか、そんな楽しみもあったのに。

便利なサービスを利用するということは、それだけ人間が考えてやることが減るということ。その減った分をなにに使うか。寝て過ごすのだとしたら、人間は、まるでSF小説のように機械に支配される日もおとずれるのではないか。スマホを使って日々の生活を便利にしたうえで、余った時間をどう生産的に使うか。そこをはっきりしないと、スマートフォンばかりスマートになって、フールヒューマンが増産しかねないと考える。

2013年1月12日土曜日

無遠慮という場

我ながら、無遠慮な男だなと思う。

大学時代、応援団というバリバリの体育会系で過ごしてきたにもかかわらず、どうも上下関係というのが苦手だ。上下関係を大事にしないわけでは無いけれど、人に敬われたりするのが面倒。その結果、こんなに無遠慮になったのかなと。要は、自分が何かを遠慮すると、相手にも遠慮させてしまうという感覚。

無遠慮といっても、遠慮なく他人のプライバシーに踏み込む訳ではない。むしろその逆。他人のプライバシーには基本的に踏み込まない。踏み込まない範囲で遠慮なく振る舞う。その境目は意外と難しい。人によって大事にしているものが違う。上記のような上下関係を大事にする人もいるし、逆に全く関係ない人もいる。恋愛の話をしたい人もいれば、政治談義をしたい人もいる。そのギリギリのラインを行き来して、話題を選び、適度な距離感を保つ。そうすると、相手も意外にリラックスしてくれるものだ。「こいつはアホだなぁ、こんなやつに気を使う必要ないね」とか、「ったく、こいつは面倒見なきゃ何もしないんだから」って思わせたら、無遠慮な雰囲気作りは成功なのかなって気がする。

遠慮した雰囲気の中で過ごしたいなんて人はいない。太宰の人間失格みたいに、一生道化でいなければならない世界なんてつまらない。全ての人間が遠慮なく、フラットに暮らせる無遠慮な場ができたらいいのにと思う。

そんなことを思いながら、今日もせっせと無遠慮な場を作るべく酒を飲む。

2013年1月11日金曜日

仕事をさばくツール GTDと実践アプリ

もともと非常に面倒くさがり。モチベーションの上がる仕事に関してはものすごく集中力が発揮されるが、ちょっとでもやりたくないと思うと一切手が動かなくなる。特に手続きが苦手。はんこを押してもらったり、書類に記入したり、イントラで登録したり…考えただけでいや。そういうのはマクロを作ってぱぱっと処理しちゃうこともあるが、だいたいそういうときは、マクロを作って満足しちゃうのが常。どうも手が出ない。

仕事のスピードは集中力で決まる。人間の集中力が続くのはせいぜい30分。それをいかに1日キープするかが鍵になる。

集中力が続かない理由は様々だけど、
やはり一番は「あれもやらなきゃ、これもやらなきゃ」とあちこちに思考が飛ぶから。それを絞ってやれば自ずと集中力が発揮される。

おすすめはGTDというツール。詳細はこの本(はじめてのGTD ストレスフリーの整理術)に譲るが、要はスケジュールや資料を全部書き出して、以下のように分類。
●すぐやること(一分以内)
●次やること
●スケジュール
●いつかやること
●資料
細かく優先順位はつけないで、次やること、をどんどん片づけていく。つまり、いつかやらなきゃ!ということに頭を悩ませないで、目の前のことにしっかり集中できるようにするためのツール。すぐにやらなきゃならないことが明確になるため、いくらぼんやりしてたってそれをやるしかないとなるわけで。自分の心に寄り道させない仕事術。

それを実現するためのアプリでおすすめなのが、Doit.im。中国の企業が作っているらしく、日本語がおかしいが、クラウドを利用して端末、PCでチェックリストを確認できる。実装が完全にGTDを実践する用になっているので、上の本を読んでから使えばかなりよい。無料の機能だとちょっと使いづらいので、有料版がおすすめ。Googleカレンダーとも連携できる。

また、集中力を高めるもう一つの工夫として、時間を細かく区切る手段がある。15分は一切を忘れて(ネットチェックやツイッターも我慢してw)、5分休憩。こんなサイクルを繰り返すとずっと続けて作業するより進捗がよい。こんなタイマーアプリでブザーを鳴らせば、意識せずに集中できる。

この二つのツールを使って、つまらない仕事をどんどんこなし、楽しい?仕事に集中したいわけです。

2013年1月10日木曜日

大阪の自殺問題に思う報道と政治


言わずとしれた大阪府の教員の体罰による自殺問題.
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130109-00000040-mai-soci

調査が進むにつれ,平手で30~40叩いていたなどの事実が明らかになり,教師の行き過ぎ感は否めません.ツイートを見る限りでは,わたしより上くらいの世代が「昔は体罰など当たり前だった.なぜ自殺など」といった論調が多かったです.でもそれは当事者じゃないから言えることです.じゃあこの自殺した子の親に同じことを言えるでしょうか?わたしは言えません.

さて,この体育教師がやったことが体罰だったか否か,といったことや,教師の人となりに怪しいところがないか,少年がいかにいい人だったか,そういったことに報道の中心が早くも移っている気がします.問題はそこなのでしょうか?年間3万人もの人が自殺する国日本.今回の当事者の「人となり」が分かったからと言って,この現状から抜け出せるとは思えません.本当の問題点はなんでしょうか.

この少年は,親にも相談していたし,「誰にも話せない」ような状況にある人間ではなかった.ではなぜ最悪の死というシナリオを選んだのか.それは,「死」に意味があると考えてしまったからではないでしょうか.

いじめでの自殺にもつながりますが,加害者側に対して被害者は訴える術がありません.そうすると,訴える術がない被害者はどういう道を選ぶか.「死」という選択肢によって,加害者側に最大の「いやがらせ」をするという道を選ぶことも十分考えられます.なぜなら,現在の日本ではいじめによる自殺問題がニュースとして非常に大きく取り上げられるからです.要は,自殺という行為によって,いじめられているちっぽけな自分が社会を動かすことができる,そんな錯覚に陥るのです.そう考えると,自殺報道は,いじめや体罰の問題に一石を投じているようで,実はいじめや体罰による自殺を助長している機構になっているのではないでしょうか?いじめられて自殺した人は,報道ではまるで悲劇のヒーローヒロインのように扱われます.座していじめに耐えるくらいなら,死後の栄光を選択してしまうということもあると十分考えられます(死後の栄光なんて,そんなものは絶対にありません!!).

いじめや体罰の報道の流れは決まってこうです.
被害者自殺→なぜ自殺したのか→いじめ→加害者側に問題は?→問題があった→謝罪→そもそもなぜ防げなかった?→教師が悪い→教育委員会が悪い→教育改革!
わたしには,風が吹けば桶屋が儲かる,くらいのつながりにしか見えません.なぜ自殺問題が教育"改革"にすりかえられるのか,さっぱり分かりません.どう教育をすればいじめが,体罰がなくなるのか,誰か明快に説明しているでしょうか.

以前,海外のいじめ対策について調べたときに下記のサイトが見つかりました.
http://members.jcom.home.ne.jp/i-network/kaigai.htm
このような海外でおこなわれている対策は,教育を"改革"しなければできないような問題でしょうか.道徳の時間に毎回こういうことを入れればいいだけではないのか.大手をふるって“大問題だ!”と騒ぐのはいいですが,Google先生に聞けば一秒で出てくるような海外のモデルケースについて,なぜ勉強や導入をしないのでしょうか.

日本の文科省が考えつくいじめ対策なんかは,せいぜいこんなものです.
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG0502Z_V00C12A9000000/
「いじめの早期発見に向けて全公立中学校にカウンセラーを置く。」
→いじめを学校ですら発見できないような状況下に置かれている子供が,わざわざカウンセラーの元に足を運ぶでしょうか?
「いじめを繰り返す子らを出席停止にする制度の活用も促した。」
→出席停止にして,帰ってきた子は逆にいじめの対象にならないでしょうか?
「いじめ問題の対策費として、2013年度予算で12年度に比べて約6割多い73億円を要求する」
→お金をかければ解決する問題でしょうか?
そして,百歩譲ってこれらが有効な手段だとしても,これらは全て対処療法でしかありません.根本の,いじめをしない子供をいかに育てるか,という観点が完全に欠落しています.こういう人たちが教育改革をして,何か形になるとは全く思えません.

今日のNHKのニュースにも,自殺報道のすぐ後に文科省の大臣がインタビューを受けていました.しかも「わたしは苦学生でした」的なもの.苦労して今がある,だから若者がんばれ!…って,それって単なる自慢ですよね?「体罰の実態を把握したい」って,把握してどうなるんですか.たとえばこうでしょうか.
体罰の実態把握
→教師のストレス把握のためにカウンセラー設置
→体罰防止のために危ない教師は配置転換
→教師育成のために予算増
これでなおりますか?
そして,こういった番組構成で報道機関は何が訴えたいのですか?

日本の政治にはスケジュールと時間の観点が抜けていると思います.たとえば今回野党に転落した党が「2030年までに原発0」と公約に明記していましたが,それは単なる希望であって,決してスケジュールではありません.だから,「決められない」のです.スケジュールがきっちりしていれば,決められないなんてことはありません.決めなければならないのだから.大事だから,小事だから,そんなことは関係ない.大事だから「早急に」でも決められないから結局だらだら.では意味がない.大事だけど難しいから20年かけて何とかします.1年目はこれ,2年目はこれ,3年目は…と明示してくれる党があったら,次の選挙はその党にいれますよ(笑)

だから,いじめや体罰の対策として教育改革を本気でやろうとするのならば,きちんとスケジュールをたてるべき.何年までにどういう教育プログラムをどのように実施する(たとえばモデル校いくつかにでもよい).その内容検証に何ヶ月.プログラムの精査・再構築に何ヶ月.全校適用.で,5年あれば何とかなるんじゃないかなと思います.政権を維持できる4年でもいいです.本気で政治をやるのだったら,政権交代が現実となった今,すべての懸案事項は4年スパンで解決すべき.4年ごとにどんどんよくなる日本.考えただけでわくわくするんですが.

話が報道から政治寄りにかなりずれました.

若い人が死という最悪の選択肢を選ぶことは非常に残念です.そのためにも,報道機関は死を防ぐ報道をすべき.自殺に意味があると思わせることはあってはならない.

報道というのは,小さなことも大きく,大きなことを小さくできるある種恐ろしい機関です.自殺だ!体罰だ!大騒ぎする前に,まずはこの一言を伝えてほしいものです.

「自殺することに意味はない.生きなさい」と.

ちょっと長くなりましたが,今日は酔いも回ってきたのでこの辺で.