2013年1月30日水曜日

ものを書くという化学反応 ―自分が他者に変化する―

ツイッターをやり始めて約二年、ブログは約二週間だが、それ以前と比較すると、圧倒的に書く量が増えた。特にここ数日は、長文を書くことが多かった。

基本的に、ものを書くのは好きだ。ツイッターだって、やり出したら止まらなくなる。推敲して、何かをじっくり書き連ねる、というよりは、反射的に思い浮かんだことをつらつらと書くという。そういう意味で、ツイッターは性に合っているし、Facebookはコミュニケーションが閉じすぎていて違うのかなという。ブログは、まあ、さほど読まれていないだろうという安心感(?)もあり、取り留めもないことを書き連ねている。

それで、書き続けていると、突如として、自分の意図しなかった方向、考えもしなかった論調に文章が組み上がっていくことがある。まるで、何かのキーワードで前後の言葉が化学反応を起こしたかのように。数日たって読み返してみると、まるで自分が書いた文章とは思えないような時もある。

読む、ということは、完全に書き手=他者とのコミュニケーションだ。小説を読むことや、他人のブログを読むことは、筆者との対話。それに対して、書くということは、自分自身との対話である。そこから自分が思いもよらない論調が出てくるというのは、どういうことだろうか。それは、文章として書き出すことによって、自分自身が他者に変化するということではないだろうか。

好きな哲学の理論に、ヘーゲルのアウフヘーベンがある.
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A2%E6%8F%9A
自身をテーゼとしたとき,書いているのは自分なので,それは自己の肯定,または意見の表明としか現れないはず.ただ,書き出す,という行為によって,テーゼとしての自分を離れ,他者として生まれ変わる,つまり自身の最大のアンチテーゼとして作用するのではないか.そこで,自己に対する新たな視点が加わり,アウフヘーベン…

と,かじっただけの哲学で議論するのはここらへんでやめにする.ものを書くと言う行為によって,自分自身ですら見つけられなかったことが見えるのではないか.その触媒となるキーワードは,それこそ書いてみなければ分からない.「何も書くことがない」ではなく,書き続けることで新たな触媒が見つかり,そこで化学反応が起こり,次を書くための新たな思考が生まれ出るのではないか.

調子がいいので先に進む.

こういうときに,物理の単純な法則を当てはめると,なんだか説明しやすい.化学反応,といいながら,物理学で話し出すのはどうかと思うが,物理の方が親しみが大きいので.慣性の法則.外力が働かない限り,止まっているものは動き続けるし,動いているものは動き続ける.世の中相単純ではなく,それにさらに摩擦が加わる.摩擦の大きさを決める摩擦係数は,静止摩擦係数>動摩擦係数.動いているものは止まっているものより動きやすいのである.

このブログも,この投稿で18本目?を迎える.毎日!と銘打った割には,すでに3, 4日サボっているのだが,書かなかった次の日は,どうも書く気が起きない.逆に,今日みたいに一日二本も(正確には,この記事の書き出しは昨日書いたのだが)書きたくなるときもある.分量が多いからかけない,というのではなく,書くのをやめてしまったから書き続けられない,という方が適切.まさに,書くことの慣性の法則.

で,こうやって書き続けると(今もそうだけど),いつの間にか書くことの摩擦がなくなって,とりとめがつかなくなる.自分の文章なのに,自分の手を離れてどんどん訳の分からない方向に行ってしまう.きっと,明日自分でこの文章を眺めると,何かいているんだこいつ!?となるに違いない.ただ,そう思えること自体,すでに昨日の自分より今日の自分が成長していると言えるのではなかろうか.

さて,酔いが回ってきてようなので,今日はこの辺で.

自分が悪い、という結論を導くことで、逆にストレスを解消する。

仕事でも何でも、一番困難な課題は人付き合いだ。人付き合いというより、人をいかに使うかということ。人にいかに自分の考えを伝えるかということだ。コミュニケーションと言われるものか。

人間、生きていく上で、他者と関わることは必要不可欠。全く知らない人と関わることもあれば、親しい人と付き合うこともある。それぞれに、難しさがある。

親しい人との付き合い方も難しい。親しいと、お互いの前提条件がなまじっかあるだけに、どうしてもなあなあになりがち。そこから誤解が生まれる。自分としては当然やってくれると思っていたことが、相手は当然のごとくやっていなかったり。そんな時は、親しいだけに数倍ストレスがたまる。

そんなストレスを生まないために!なんて本はいっぱいある。では、実際に生まれたストレスはどう処理すればいいのだろうか?逆説的だが、「自分が悪かった」と思い直すことである。

相手の間違い、不手際を考えるというのはどうか。人間、過去に起こったことを振り返る時ほどネガティブな瞬間はない。他人の不手際を上げるのは、まさに過去の出来事、さらにはネガティブな事項を探し出すことになる。相手の悪いところは、いくら数えても足らない場合も。しまいには数年前に貸した金まで持ち出して…なんてこともよくある。思考は常に後ろ向き、そしてストレスを感じる時間は長い。

では、相手の良い所を探すというのはどうだろう。ポジティブではあるけれど、人間、ポジティブな事項というのは探しにくいので、すぐに尽きてしまうだろう。君いいね!なんてほめて、相手が逆に怒る場合もあるだろう。悪くはないが、先に進むには、両者の信頼関係が必要。それがないと、単なる馴れ合いにもなりかねない。

自分の良い所を探すのは?一見、ポジティブになるには良さそう。しかし、自分の実績をともすると美化してしまって、自分偉い、だから俺は悪くない、という何とも自己中な思考になりがち。相手からすれば、お前悪いだろ!反省しろ!とはらわた煮えくり返る思いかもしれない。

そこで、自分が悪い、と考えるわけだ。

誰しも、自分の悪いところなんて考えたくない。が、それでも振り絞って、自分が悪いと思った所をさがす。なるべく迅速に。そこで見つかった点は、自分の力が及ぶ範囲、自分だけの力で解決できる範囲である。そこを、まず自力で解決するわけだ。振り返りたくないものを振り返るので、時間は短いし、治すという方向は前を向いている。他人だとこうはいかない。なぜなら、自己の分析のあとに、一番困難なコミュニケーションの過程が加わるから。命令口調で言わなきゃならない部下もいれば、恐る恐る提言しなければならない上司もいるだろうし、なあなあになってしまう友人もいるだろうし。そこに時間を費やすよりは、まず自分の間違いを認め、改善する。意外とそこが解決すると、全体がまるでせきをきったように流れ出す場合もあるから不思議。ストレスを感じる時間は最も短くて済むわけだ。相手も、あいつ自分の間違いにようやく気づいたな?となるわけで。

まあ、こんなにうまく行くかはわからないが、少なくとも結論を自己解決に持っていくというのは、どうしようもないストレスを封じ込めるには最高かと思う。根本的に俺がポジティブだからかもしれないけれど。

2013年1月26日土曜日

レッテルを貼るということの大きな弊害 -ゆとり世代というネーミング

下記のようなまとめが作られるくらい,ゆとり世代というものに体するイメージは悪い.
http://matome.naver.jp/odai/2128321591083754201

当然,ゆとり世代を作ったのは,ゆとり教育を受けていた本人たちではなく,その教育を作り出した大人たちである.自分たちが作り出した世代に対して,勝手に「これだからゆとりは…」なんて言うのは,身勝手も甚だしい.

とはいえ,人間というのは,レッテルを貼り,分類をしてグループにすることで安心する動物だ.出身地,血液型,性別,年齢等々.O型だからおおざっぱ,女は群れるなどなど.あげていけばきりがない.しかし,そうやってレッテルを貼ることがコミュニケーションの断絶につながっていく.

たとえば,学校を想定してみる.ある年代が,総じて不良が多い学年だったとしよう.その学年は「不良が多い学年」というレッテルが貼られる.どんなにまじめな人間であろうと,それは「あの学年にしてはまじめだ」という評価になる.もし一瞬でも,社会が感じる悪の行為を行ったなら,「結局あいつは同じ穴のムジナ」ということになるわけで.ある集団にレッテルを貼ると言うことは,個というものを殺し,評価をゆがめるものとなる.そう評価された方はどうか.正当に評価されないとしたら,腐ってしまう.

もちろん,個に対するレッテルも同じ.ジャイアンがよく言う.「のび太のくせに生意気な」と.のび太のした行為がいかに良いことであろうと,だらしなくて弱い,というレッテルが貼られているのび太がやると,それは=生意気となってしまうわけである.

思えば,世の中はレッテル貼りにあふれている.「マスコミはだめだ」「教育委員会はだめだ」「東電は何をやっているんだ」などなど.

評価されるべきは,団体や個人に貼られているレッテルではない.行われている行為そのものである.

話は戻ってゆとり世代.今,ゆとり世代と呼ばれている子供たちと仕事以外で接する機会がある.彼ら彼女らから言えば,ゆとり教育をされていること,されてきたことは迷惑でしかない.教科書自体にそれ以上のことを学べる環境が整っていない.彼ら彼女らも,それなりの教科書を渡されればきちんとした知識を身につけていた人間なのである.また,世間で言われているような積極性のなさや,指示待ち,誘いを断る,なんて特徴は,少なくともわたしが知っているやつらにはない.ちょっとこつを教えてやれば,すぐに吸収する.彼ら彼女らは教育に飢えている.

語りたいのは,ゆとり教育がだめだった,という話ではない.それを評価しきれずにもてあまして,「これだからゆとり世代は」と語る大人たちの方である.

最初に貼ったリンクの内容を読み返してみる.「個性を大事に」と大人は言う.なのに,個性的な人間にたいして「礼儀がなっていない」という.一部の大人は「飲み会は時間の無駄」というのに,「上司の飲みの誘いは断る世代」とまるで悪者扱い.ではゆとり世代と呼ばれる人間たちと,この批判をする大人たちは真剣に話をしたことがあるのだろうか.真剣に接せず,ただ自分の今までの価値観,つまり自分に対するレッテル,を,若い世代に当てはめようとして,それに外れるもの,自分には理解できないものを,「ゆとり」と呼ぶことによって安心感を得ているだけではないだろうか.

この前見た,山本五十六の映画のなかで,繰り返し五十六が唱えていた言葉.「次代を担うのは若者」ということ.調べてみたら,このようなことも言っていたそうだ.

「いまの若い者は」などと、口はばたきことを申すまじ

実年者は、今どきの若い者などということを絶対に言うな。
なぜなら、われわれ実年者が若かった時に同じことを言われたはずだ。

今どきの若者は全くしょうがない、年長者に対して礼儀を知らぬ、
道で会っても挨拶もしない、いったい日本はどうなるのだ、などと言われたものだ。

その若者が、こうして年を取ったまでだ。
だから、実年者は若者が何をしたか、などと言うな。
何ができるか、とその可能性を発見してやってくれ。


本当にそう思う.ゆとり教育を受けてきた世代が,今後大人になるときに,反発からものすごい教育システムを生み出す可能性だってある.それを単なる大人の馬鹿みたいな「ゆとり世代」なんてレッテルによって,可能性をつぶすことはばからしい.「しかられるとすぐへこむ」というのを認識しているのなら,褒めて伸ばせば良いだろう.変わるべきは彼ら彼女らではなく自分自身であると言うことをまず認識すべきだ.

かくいう自分も,やはり分類が好きな人間であった.女はこうだ,○○サークルのやつは終わっている.ただ,逆に自分も同じように評価されていると感じたときに,それをやめることにした.やめることによって気づいたのは,自分自身に対してもレッテルを貼り,限界を定めていたと言うこと.人を見る前に,まず自分自身に対して考えるべきだと言うこと.

レッテルというメガネを外し,その人の行為に注目しよう.だめなことはだめだし,いいことはいい.そこをしっかりと指摘し,互いに成長すること.そういうことを大事にしたい.

2013年1月23日水曜日

アクティブな引きこもり

よく「連休になると外に行かないともったいない!」とか、「天気がいいのに家の中にいるなんて!」って人がいる。私にはそういう心境は正直わからない。長い休みこそ家でこもりたいし、天気がいいほど外に出たくない。単なるあまのじゃく、と言うのではなく、実際に引きこもり気味なのかもしれない。

引きこもりのイメージって、オタクで暗い感じかもしれない。俺はある意味(仮面ライダー好きだったりゲーマーだったり)、オタクかもしれないが、少なくとも暗くはない。アクティブな引きこもりと言ったところか。

当然、仕事も遊びもそれなりにやる。旅行も好きだし、誘われれば飲みにも行く。でも、自ら進んで外に出たいわけではない。家にいられるなら家で1日ぼーっと。起きてはいるけど、本を読んだり、お茶を飲んだり、掃除したり…そんなことして、何もしないで過ごす1日がすごく大事。だから休みの日は基本的に引きこもり。普段しゃべりすぎってのもあるけど。

現代人の時間の流れって速すぎる。効率化、効率化で、どんどん時間単位でできることは増えているのに、一向にやることは減らない。体の中の時間感覚が、効率化に伴って、速くなっているんじゃないか。

せめて、休みの日ぐらい、時間を忘れてのんびり暮らすのが、一番自然なのではないか。

2013年1月19日土曜日

口実の重要性

日本全国酒飲み温度
http://casime.com/i/46364

良い歌だなぁと思う。特に後半、11月の「何もないけど」や、12月の「どさくさ」とかたまらない。酒飲みの感じが出過ぎていて。

そうは言っても、飲む口実というのは大事である。

今日は○○だから仕方ないよね、といった、自分が飲んでいるのは、意志ではない、お祝いだ!という感覚。言い訳。

それともう一つ、飲みに口実を与えると、飲み会自体が生き生きと輝き出す。
実際やったことある飲み会。
●ひな祭り飲み会(男三人)
●旧忘年会(旧暦の大晦日)
●火曜日飲み会(何か火曜日は飲みたい)
●節分(言わずもがな)
●忘期末会(四半期に一度)
…などなど。
あげればきりがないが、これらも、名前がなければ単なる飲み会。ただ、名前をつけるだけでがらっと変わる。例えば旧忘年会であれば、2月みながバレンタインに浮かれている頃、あけましておめでとう!とかバカみたいに叫ぶ。例えば節分なら、鬼役を作って豆を投げる。例えば火曜日なら、「だって今日は火曜日だよ!」と謎の理由で盛り上がる。テーマがあれば盛り上がる。そのためにも口実は重要だ。

思えば、日本人は昔からこうやって口実を作って、諸行事を楽しんできたのではないか。季節の変わり目。初物。お祭り。なんやかんや、縁起がいい!といって酒を飲む。うまいものを食べる。外国の行事も訳もなく取り入れる。クリスマス、ハロウィン、バレンタインデー。なんだかんだ文句を良いながら、みな楽しんでいる。全部、日本人の口実好きによって広く受け入れられているのではないだろうか。

ということで、今日は新年会。仕方ないなー飲んでくるか!

2013年1月18日金曜日

子供を侮る無かれ

町内会やら、他人の家に遊びに行ったりで、割と子供と接することが多くなった。小学校入学前~低学年程度の子。

もう30にもなって、いい加減若者って感じでもないので、子供と接するときの一人称は「おっさん」を使うことにしている。パパ、ママ、お父さん、お母さん、おじさん、おばさんなどを呼び慣れている子供にとって、なんの障害もなくおっさんと呼ばせてくれる俺は貴重な模様。要するに、完全に遊ばれる。

基本、天上天下唯我独尊の性格。他人に気を使うというのは苦手だけれど、子供は未知の可能性があるので、何とかそれを引き出して知見を我がものにしてやりたい。そんな一心で、いかに子供に心開かせるかという工夫をこらす。

子供と接するときに大事にしていること。

まずは、目線を同じにすること。物理的にも精神的にも。上から目線で威嚇しても、子供は心開かない。姿勢を低くする。これ重要。高さは、遊ぶ時には発揮するが、例えば本を読む、ご飯を食べる、そんなときにはなるべく子供と同じ目線になる。

子供扱いしない。赤ちゃん言葉を使ってみたり、何でもかんでもかわいいと言ってみたり、甘やかしたり。そんなことは絶対しない。この前は、簡単などうぶつしょうぎみたいなもので6歳児と勝負。まあ、当然普通にやって負けるわけがないので、いろいろハンデは与えた。それでも俺が勝つので、ちょっと教えてやったりして勝たせたら、その子が言ったのは「今のは教えてもらったからつまらない」と。つまり、ハンデを受けるのは実力差だから認めるが、教えられるのはプライドに関わるわけだ。子供だと思って子供扱いすることが、逆にその子を傷つけている可能性もある。

怒るところは怒る。子供は割と理不尽に殴ってきたりする。それは、例え大人であっても痛いのだ、ということを知らしめる。ルール違反をしたら、ゲームで負けにする。泣こうがわめこうが、ルール違反は覆らないということを、きっちり教えるべき。
前に、俺が何回あしらっても突進してきて、仕舞いにはけ飛ばそうとする子供がいた。そいつが俺を蹴ったあと、座らせて、にっこりわらってほっぺたを軽くはたいてみた(はたいたといっても、触ったくらい)。「殴られたら痛いんだよ」って。わがまま放題の程度を知らない子供には、きちんと痛い、という感情を教えないとと思う。(体罰と何が違うか、と言われると、若干苦しいが、少なくとも俺は対等なレベルで話していた、とは言える。)

そうやって、レベルを合わせて接すると、子供は本当に様々な表情を見せてくれる。俺が絵本を読んであげていたのがいつの間にか俺が読み聞かせられていたり。子供から学ぶことは多い。

転じて、これは一般的な教育にだって当てはまる。先輩だからといって、上から話さない、相手を対等に扱う、叱るところはきっちり叱る。そうすれば、相手だって成長して、そのうち自分を追い越していくだろう。

子供だろうが、後輩だろうが、若いものを侮る無かれ。彼ら彼女らは、自分より若い分、それだけ多くの可能性を秘めているのだ。

教材費増額で「理科好き」を増やしてどうなるか.

2013年度予算案の大筋が発表された.内容は今後精査する予定だが,こんな記事が目に飛び込んできた.

理科好きの子ども育成を…教材費の大幅増額検討
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20130107-OYT1T00598.htm
記事では,
”「理科好き」の子どもを増やすため、小中学校の実験や観察で使う顕微鏡や人体模型などの教材購入にあてる補助金を大幅に増額する検討に入った。”
と述べている.

果たして,教材費の増額で「理科好き」は増えたとして(それもかなり疑問だが),それによって生まれた「理科好き」は,科学技術創造立国につながるのか.その点について述べたい.

教材が増えるとどうなるか.さまざまな実験器具やセットが増えることで,自由度が上がるように思えるかもしれないが,それは逆.むしろ,科学としての自由度は下がる方向に行く.

科学とは未知なるものへの探求である.未知なるものを発見しようとするときに,誤差のない最新鋭の器材を使用し,教科書通りに実験をすると,まるで教科書に書いたような結果が出る.それがいったい何の役に立つというのだろうか.自由なように見えて,それは答えがほぼ一通りしかない,不自由な活動である.科学は,用意された教材で発見して喜ぶのではなく,発見するためにどういうものを使うか考えるところに意味がある.用意された教材で見られるのは,未知ではなく既知.それは科学ではなく,単なる試験の模範解答にすぎない.

理科を好きにさせる活動として,でんじろう先生を見てみると,どこに高価な実験装置が出てくるだろうか.段ボールとドライアイス.これで十分なのである.

自由研究大賞というのがあるそう.
http://japan.discovery.com/summer/
大賞の研究内容は,
"夏休みの約1ヶ月間、毎日自宅の庭先でボールを数種類落とし、月の満ち欠けとボールの落ちる位置がどう変化するかをまとめた作品。"
聞くだけで感激する内容.これを単なる「理科好き」で片付けて良いのだろうか.

審査員の総評は
”その努力の源は、飽くなき探究心が原動力となって引き起こされたものです。そして、探究心は努力の源だけではなく、研究の楽しさも生じさせます。
努力と楽しさがスパイラルに相互作用し、このような素晴らしい自由研究が完成したのでしょう。
入賞した人も入賞できなかった人も、「自分の知りたいことを楽しみながら研究できた人」は、それだけで大成功なのです。”
まさにその通り.どこにも,彼らが“理科が好き”や“研究が好き”とは書いていない.“飽くなき探究心”と“努力”,そしてそれから生まれる“楽しさ”が優秀な研究を生み出しているのだ.

教材費を増やすことで,確かに理科というものに興味を持つ人間は出るかもしれない.ただし,それはあくまで“これとこれを組み合わせたらこういう結果が出る”という,教科書通りの答えが出る理科が好きな人間だ.“理科を好きになってもらうのが第一歩”と言うのは見当違い.実際の科学は,疑問を持つ→仮説を立てる→検証するための手法を考える→実験→結果→考察といった,ある意味面倒な課程を経る必要がある.理科が好きになったからと言って,このような思考が身につくわけではないし,いわんや教科書通りの実験をや.

こういう思考を持った人間を育てるのに,“理科”や“理系”というくくりはかなりの障害となる.最も論理的に成り立つものは数学.新たな発想を生む観点を身につけるためには,想像力や読解力ももちろん必要.文学的素養も必要となる.そういった,全人教育が必要となる.そこを読み間違えると,“理科好き”を増やすことで,“理科が苦手”な人間を大量生産することにもなりかねない.

フィンランドの教育内容を,この前NHKでやっていた.
http://www.nhk.or.jp/ichiban/backnumber/b09/index.html
もとは詰め込み教育だったフィンランドが,現在どのような教育を実施しているか.要点は,自分で考えさせることおよび全員正解であった.こういった子供たちが,その成長過程の中で「理科好き」になったとしたら?日本がこれから作ろうとしている「理科好き」と戦ったときに,どうなるだろうか.結果は明白.失敗を恐れず,自分で考える力を持った人間にかなうわけがない.これでは,科学技術創造立国にはほど遠い.

日本でも当たり前のようにこれと同じことを試みている.言わずとしれた「ゆとり教育」である.思想自体は全く間違っていないと思っているが,具体策がまずかった.あとは,現場発信ではなかったこと.それが問題.結局,授業時間を削るだけの施策になってしまった.「教師が悪い」とか問題ではなく,お上の浮き世離れした命令ありきだったところが問題.

では何をどうするべきか,まで言及したいのではあるが,それを語り出すと話がだいぶ明後日の方向に飛んでしまうので,今日はこのへんで.

2013年1月16日水曜日

飲みとSNSで広がるコミュニティー

(毎日更新、が目標なので、今日は割と短いですが。)

いろんなところで飲み歩いて、しかもひとりでも結構飲みに行く。そうすると、割と同じようなことを考えている人はいるもので、カウンターに座るといろんな出会いがある。そんな出会った人とは、以前は本当にそれっきりというのが多かった。わざわざ電話番号やメールアドレスを交換する程でもなかったから。

ところが、今はfacebookやtwitterといった、ゆるーいコミュニティーがある。「メルアド交換しよ!」とは厚かましい俺でもなかなか言えないけど、「へー、Twitterやってるんだ」は、割と聞く方も聞かれる方もハードルが低い。元々の、ハードルフリーな性格に、SNSという武器を手にして、どんどん世界との関わりが増えていく俺。
恐ろしいね。

ということで、今日は焼鳥屋で知り合った20歳の美容師の男子と新年会。酒を飲まなきゃ絶対に会わなかった人種とこうして飲むのも乙ですね。

2013年1月15日火曜日

雪道で歩く際のリスク低減

そんなに雪国でもない松本も、
昨日は大雪に見舞われた。
昨日の大雪。普段は雪が降らないような地域も雪でおおわれて、転倒したりした人も多いのではないだろうか。
大学時代は北海道で、自宅→学校→バイトと、雪道を1日一時間半程度歩いていたため、雪道の歩き方についてはかなり研究した。そこで得た知見をまとめたいと思う。

●転ばないために
どんなに注意していても、転ぶ時は転ぶ。ブラックアイスバーンになっていれば、どんな雪道常連でもひっくり返る。ただ、歩き方をちょっと注意すれば、リスクは低減できる。

1. 靴は長靴
靴は長靴が一番。適度にギザギザがついているのはもちろん、すれ違い時に効果。大抵、雪国以外で雪が積もったときは、歩道が異常に狭くなるので、すれ違い時にどうしても深い雪の中に足を入れることになる。寒い上に足元が濡れると最悪な気分。その点、長靴なら、進んで道を譲ってあげられる。ただ、普通の長靴は非常に薄く、寒いので注意。

2. 重心は前に
基本的に人間は尻が重いため、普段歩きと同様に歩くと、若干重心が後ろよりになる。そのため、かかとが着氷した瞬間に、後ろにひっくり返る転び方が多い。防ぐためには、体を前屈みにすると同時に、つま先に体重をかけるのがよい。

3. 歩幅は小さく
歩幅が大きくなると、どうしてもかかとから着氷しがち。そうなると転ぶリスクが高まる。歩幅小さく、つま先から、これが基本。

4. 若干内股
スキーでもボーゲンは内股。がに股にすると、足が広がる方向にいくので、転ぶリスクは否応なく高まる。内股になろう。普段がに股の人は、足先をまっすぐ向けるだけでもだいぶ違う。
これらを実践すると、まるでペンギンのような歩き方になる。その通り。自分がペンギンになったつもりで歩く。

5. 横向きの斜面に気をつける
どんなに前体重に歩いていても、横方向の滑りには対処できない。歩道と道路の境目のように、進行方向に対して垂直方向に斜めになっている部分はかなり危険。そういう道で、しかも凍っていた場合、ほぼ転ぶ。なので、そういう進路ははじめから選ばないのが得策。君子危うきに近寄らず。

●外的要因から身を守る
自分がいくら転ばないようにと思っても、外からとばっちりを受ける可能性があり。歩行者は最も弱い存在。自分の身は自分で守ろう。

1. 車道は歩かない
歩道があまり除雪されていない場合、どうしても雪が溶けている車道を歩きたくなる。雪国なら割と車も雪道運転になれているが、そうで無いところは、熟練ドライバーも初心者並みと思った方がよい。また、除雪が不十分だとわだちにタイヤをとられて、あらぬ方向に車が向かってくる危険性があり。なので、車道は歩かないように。できれば通勤路・通学路を変更してでも歩道のある道路。どうしてもという場合は、できるだけ交通量の少ない道路を歩く。

2. 自転車は凶器。すれ違い時は止まる
凍ったり雪の積もっている歩道を走る自転車は、ある意味自動車よりたちが悪い。すれ違いのときは、いくら歩道が歩行者優先だといっても、引かれたらおしまいなので、脇にそれて道を譲ろう。逆に、積雪時には自転車には絶対に乗らないように!

3. 周りに気を配る
途中で立ち止まって、前後左右を確認する、道路状況チェック等、最大限歩くことに神経を集中する。通常時でも危険だが、積雪時は特に携帯をいじりながらの歩行はしない!

●その他
無理な横断は避けよう。車道は自分が思っている以上に滑る。無理に横断しようと駆け足になると、道路のど真ん中で転ぶというリスクも。まだ横断歩道だったらいいが、横断歩道のないところだと、ブレーキがききづらい車に引かれることも考えられる。普段もそうだが、積雪時は特に、青信号の横断歩道をわたることを徹底しよう。

転ぶだけのリスクだったら、まあほっといてもいいかなという気もするが、積雪時は車や自転車が予想外の動きをする可能性あり。外的要因に注意しながら、焦らず雪道をあるこう。

2013年1月14日月曜日

スマートフォンのスマートじゃないところ。

スマホを使い始めて一年ちょっと。スマホ自体、というよりも、スマホに変えたことにより、ネットワークの便利なツールをいろいろと使うようになった。生活も大きく変わったというのが事実。自分のやりたいことに携帯をあわせるのではなく、スマホができることの中から、自分が利用できることを見つけるという感覚。アプリをインストールして自分好みに端末をカスタマイズし、利用するということ。そこがメリットかなと思う。

ただ、弊害もあるかなと。スマートフォンが普及して、世の中いろいろ 便利にはなったけれど、思考の訓練をすべき 若いうちから(例えば高校生くらいから)、すぐに「スマホで調べればいいじゃん」的な考えになってしまったらどうなるか。Google先生の検索精度があがっていくとともに、人間の方がどんどん スマートじゃなくなっていくのではなかろうか。今でこそ、自分はスマートフォンなしでは生活できない感覚になっているが、高校生のころからこんなものがあったら、いったい自分はどうなってしまったんだろうかと思うと、ぞっとする。

自分が子供の頃は、そもそもインターネット 自体が普及していなかった。料金も定額では なかったし、接続してもすぐに切るといった次第で。ゲームの攻略法を探すにしても、今 ならGoogle先生に聞けば、これでもかという くらい攻略法が出てきて、むしろそれなしだ とこせないのではないかというスペックのも のさえ。昔は、分厚い攻略本を買うか、自力で裏技を探すか、そんな楽しみもあったのに。

便利なサービスを利用するということは、それだけ人間が考えてやることが減るということ。その減った分をなにに使うか。寝て過ごすのだとしたら、人間は、まるでSF小説のように機械に支配される日もおとずれるのではないか。スマホを使って日々の生活を便利にしたうえで、余った時間をどう生産的に使うか。そこをはっきりしないと、スマートフォンばかりスマートになって、フールヒューマンが増産しかねないと考える。

2013年1月12日土曜日

無遠慮という場

我ながら、無遠慮な男だなと思う。

大学時代、応援団というバリバリの体育会系で過ごしてきたにもかかわらず、どうも上下関係というのが苦手だ。上下関係を大事にしないわけでは無いけれど、人に敬われたりするのが面倒。その結果、こんなに無遠慮になったのかなと。要は、自分が何かを遠慮すると、相手にも遠慮させてしまうという感覚。

無遠慮といっても、遠慮なく他人のプライバシーに踏み込む訳ではない。むしろその逆。他人のプライバシーには基本的に踏み込まない。踏み込まない範囲で遠慮なく振る舞う。その境目は意外と難しい。人によって大事にしているものが違う。上記のような上下関係を大事にする人もいるし、逆に全く関係ない人もいる。恋愛の話をしたい人もいれば、政治談義をしたい人もいる。そのギリギリのラインを行き来して、話題を選び、適度な距離感を保つ。そうすると、相手も意外にリラックスしてくれるものだ。「こいつはアホだなぁ、こんなやつに気を使う必要ないね」とか、「ったく、こいつは面倒見なきゃ何もしないんだから」って思わせたら、無遠慮な雰囲気作りは成功なのかなって気がする。

遠慮した雰囲気の中で過ごしたいなんて人はいない。太宰の人間失格みたいに、一生道化でいなければならない世界なんてつまらない。全ての人間が遠慮なく、フラットに暮らせる無遠慮な場ができたらいいのにと思う。

そんなことを思いながら、今日もせっせと無遠慮な場を作るべく酒を飲む。

2013年1月11日金曜日

仕事をさばくツール GTDと実践アプリ

もともと非常に面倒くさがり。モチベーションの上がる仕事に関してはものすごく集中力が発揮されるが、ちょっとでもやりたくないと思うと一切手が動かなくなる。特に手続きが苦手。はんこを押してもらったり、書類に記入したり、イントラで登録したり…考えただけでいや。そういうのはマクロを作ってぱぱっと処理しちゃうこともあるが、だいたいそういうときは、マクロを作って満足しちゃうのが常。どうも手が出ない。

仕事のスピードは集中力で決まる。人間の集中力が続くのはせいぜい30分。それをいかに1日キープするかが鍵になる。

集中力が続かない理由は様々だけど、
やはり一番は「あれもやらなきゃ、これもやらなきゃ」とあちこちに思考が飛ぶから。それを絞ってやれば自ずと集中力が発揮される。

おすすめはGTDというツール。詳細はこの本(はじめてのGTD ストレスフリーの整理術)に譲るが、要はスケジュールや資料を全部書き出して、以下のように分類。
●すぐやること(一分以内)
●次やること
●スケジュール
●いつかやること
●資料
細かく優先順位はつけないで、次やること、をどんどん片づけていく。つまり、いつかやらなきゃ!ということに頭を悩ませないで、目の前のことにしっかり集中できるようにするためのツール。すぐにやらなきゃならないことが明確になるため、いくらぼんやりしてたってそれをやるしかないとなるわけで。自分の心に寄り道させない仕事術。

それを実現するためのアプリでおすすめなのが、Doit.im。中国の企業が作っているらしく、日本語がおかしいが、クラウドを利用して端末、PCでチェックリストを確認できる。実装が完全にGTDを実践する用になっているので、上の本を読んでから使えばかなりよい。無料の機能だとちょっと使いづらいので、有料版がおすすめ。Googleカレンダーとも連携できる。

また、集中力を高めるもう一つの工夫として、時間を細かく区切る手段がある。15分は一切を忘れて(ネットチェックやツイッターも我慢してw)、5分休憩。こんなサイクルを繰り返すとずっと続けて作業するより進捗がよい。こんなタイマーアプリでブザーを鳴らせば、意識せずに集中できる。

この二つのツールを使って、つまらない仕事をどんどんこなし、楽しい?仕事に集中したいわけです。

2013年1月10日木曜日

大阪の自殺問題に思う報道と政治


言わずとしれた大阪府の教員の体罰による自殺問題.
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130109-00000040-mai-soci

調査が進むにつれ,平手で30~40叩いていたなどの事実が明らかになり,教師の行き過ぎ感は否めません.ツイートを見る限りでは,わたしより上くらいの世代が「昔は体罰など当たり前だった.なぜ自殺など」といった論調が多かったです.でもそれは当事者じゃないから言えることです.じゃあこの自殺した子の親に同じことを言えるでしょうか?わたしは言えません.

さて,この体育教師がやったことが体罰だったか否か,といったことや,教師の人となりに怪しいところがないか,少年がいかにいい人だったか,そういったことに報道の中心が早くも移っている気がします.問題はそこなのでしょうか?年間3万人もの人が自殺する国日本.今回の当事者の「人となり」が分かったからと言って,この現状から抜け出せるとは思えません.本当の問題点はなんでしょうか.

この少年は,親にも相談していたし,「誰にも話せない」ような状況にある人間ではなかった.ではなぜ最悪の死というシナリオを選んだのか.それは,「死」に意味があると考えてしまったからではないでしょうか.

いじめでの自殺にもつながりますが,加害者側に対して被害者は訴える術がありません.そうすると,訴える術がない被害者はどういう道を選ぶか.「死」という選択肢によって,加害者側に最大の「いやがらせ」をするという道を選ぶことも十分考えられます.なぜなら,現在の日本ではいじめによる自殺問題がニュースとして非常に大きく取り上げられるからです.要は,自殺という行為によって,いじめられているちっぽけな自分が社会を動かすことができる,そんな錯覚に陥るのです.そう考えると,自殺報道は,いじめや体罰の問題に一石を投じているようで,実はいじめや体罰による自殺を助長している機構になっているのではないでしょうか?いじめられて自殺した人は,報道ではまるで悲劇のヒーローヒロインのように扱われます.座していじめに耐えるくらいなら,死後の栄光を選択してしまうということもあると十分考えられます(死後の栄光なんて,そんなものは絶対にありません!!).

いじめや体罰の報道の流れは決まってこうです.
被害者自殺→なぜ自殺したのか→いじめ→加害者側に問題は?→問題があった→謝罪→そもそもなぜ防げなかった?→教師が悪い→教育委員会が悪い→教育改革!
わたしには,風が吹けば桶屋が儲かる,くらいのつながりにしか見えません.なぜ自殺問題が教育"改革"にすりかえられるのか,さっぱり分かりません.どう教育をすればいじめが,体罰がなくなるのか,誰か明快に説明しているでしょうか.

以前,海外のいじめ対策について調べたときに下記のサイトが見つかりました.
http://members.jcom.home.ne.jp/i-network/kaigai.htm
このような海外でおこなわれている対策は,教育を"改革"しなければできないような問題でしょうか.道徳の時間に毎回こういうことを入れればいいだけではないのか.大手をふるって“大問題だ!”と騒ぐのはいいですが,Google先生に聞けば一秒で出てくるような海外のモデルケースについて,なぜ勉強や導入をしないのでしょうか.

日本の文科省が考えつくいじめ対策なんかは,せいぜいこんなものです.
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG0502Z_V00C12A9000000/
「いじめの早期発見に向けて全公立中学校にカウンセラーを置く。」
→いじめを学校ですら発見できないような状況下に置かれている子供が,わざわざカウンセラーの元に足を運ぶでしょうか?
「いじめを繰り返す子らを出席停止にする制度の活用も促した。」
→出席停止にして,帰ってきた子は逆にいじめの対象にならないでしょうか?
「いじめ問題の対策費として、2013年度予算で12年度に比べて約6割多い73億円を要求する」
→お金をかければ解決する問題でしょうか?
そして,百歩譲ってこれらが有効な手段だとしても,これらは全て対処療法でしかありません.根本の,いじめをしない子供をいかに育てるか,という観点が完全に欠落しています.こういう人たちが教育改革をして,何か形になるとは全く思えません.

今日のNHKのニュースにも,自殺報道のすぐ後に文科省の大臣がインタビューを受けていました.しかも「わたしは苦学生でした」的なもの.苦労して今がある,だから若者がんばれ!…って,それって単なる自慢ですよね?「体罰の実態を把握したい」って,把握してどうなるんですか.たとえばこうでしょうか.
体罰の実態把握
→教師のストレス把握のためにカウンセラー設置
→体罰防止のために危ない教師は配置転換
→教師育成のために予算増
これでなおりますか?
そして,こういった番組構成で報道機関は何が訴えたいのですか?

日本の政治にはスケジュールと時間の観点が抜けていると思います.たとえば今回野党に転落した党が「2030年までに原発0」と公約に明記していましたが,それは単なる希望であって,決してスケジュールではありません.だから,「決められない」のです.スケジュールがきっちりしていれば,決められないなんてことはありません.決めなければならないのだから.大事だから,小事だから,そんなことは関係ない.大事だから「早急に」でも決められないから結局だらだら.では意味がない.大事だけど難しいから20年かけて何とかします.1年目はこれ,2年目はこれ,3年目は…と明示してくれる党があったら,次の選挙はその党にいれますよ(笑)

だから,いじめや体罰の対策として教育改革を本気でやろうとするのならば,きちんとスケジュールをたてるべき.何年までにどういう教育プログラムをどのように実施する(たとえばモデル校いくつかにでもよい).その内容検証に何ヶ月.プログラムの精査・再構築に何ヶ月.全校適用.で,5年あれば何とかなるんじゃないかなと思います.政権を維持できる4年でもいいです.本気で政治をやるのだったら,政権交代が現実となった今,すべての懸案事項は4年スパンで解決すべき.4年ごとにどんどんよくなる日本.考えただけでわくわくするんですが.

話が報道から政治寄りにかなりずれました.

若い人が死という最悪の選択肢を選ぶことは非常に残念です.そのためにも,報道機関は死を防ぐ報道をすべき.自殺に意味があると思わせることはあってはならない.

報道というのは,小さなことも大きく,大きなことを小さくできるある種恐ろしい機関です.自殺だ!体罰だ!大騒ぎする前に,まずはこの一言を伝えてほしいものです.

「自殺することに意味はない.生きなさい」と.

ちょっと長くなりましたが,今日は酔いも回ってきたのでこの辺で.

2013年1月9日水曜日

いまさらながら断捨離のお話を


時の移ろいは早いもので,一時期かなりブームになっていた断捨離*も,世間では聞かれなくなったように思います.(わたしがテレビを見ていないだけで,実はまだはやっているという可能性もありますが.)

そのブームの火付け役とも言うべきこの本,「人生がときめく片付けの魔法」.わたしも電子書籍でこっそり購入しました.何となくこれを一人暮らしの男の本棚に並べておくのは抵抗があり(笑)また,電子書籍版は,著者が片付けの方法を動画で実践してくれるという特典もあったので(言い訳).

内容としては,著者のこんまりさんの片付けに対する異常な執着ぶりと,ちょっとぶっ飛んでいる感が非常におもしろいです.「片づけのリバウンドに悩み続けた末に失神」とか,「ものをたたむときには手からハンドパワーが出ている」など.実際の片付けの内容以外のところでかなり笑わせてもらいました.最近2も出たようなので,片付けとは関係なく買ってみようかなと(ただし電子書籍が出ていれば).

で,書いてあることはというと,
○リバウンドしない片付けをする
○そのためにまずものを捨てる
です.(実際は他にも収納方法のこつなどがいろいろ書いてあります.)

もともと,整理整頓が非常に苦手.小学校の成績表は,「整理整頓」のところだけ毎回「がんばりましょう」だったし,自宅の机の上も何度親に全て捨てられたことか.根本的には面倒くさがりというのがあります.片付け始めると一気に片付けるのですが,それをやり始めるまでが遅い.だから自分の周りは一瞬だけきれいで,あとは汚かったわけで.

では,面倒くさがりの自分が片付けられるようにするにはどうすればよいか.それは,片付けがいらないようにすること.逆説的ですが,これが一番正しいのかなと.世間に収納本はあまたあって,何冊も読んだことはあるのですが,どれもしっくりこない.収納したものを出してしまえば,また片付けなければならないわけで.それは面倒.そんなとき,「リバウンドしない」という言葉がしっくりきたわけです.

早速実践.男の一人暮らしなんて,大してものがないとたかをくくっていたのですが,いざ片付け始めると捨てられるのか,捨てられないのかの境界線のものが多数.特に大学時代に作ったグッズ系の服や,旅先で買ったよくわからない小物など.これらを捨てるか捨てないかはかなり迷いどころでしたが,こんまり流に言うと「今ときめくか」の基準で考えなさいとのこと.そして「今ときめかないなら,それはすでに役目を終えた」「タンスの隅で眠らせておくくらいなら,供養してあげましょう」と.この考えにははっとしました.ときめくかどうかは別として,役目が終わったと考える.確かに大学時代のグッズだって,そのときのメンツでの一体感はあったけれども,今それがあるかと言ったら特にない.旅先で買った小物も,何となく「自分がお金を出して買ったから」という理由で捨てられないのですが,もう買った瞬間に旅先での満足が得られて,その時点で役割は終わっていたのかも.あるのは郷愁くらいなもので,そんなものにふけってもおなかは膨らまない.そう思ってから,ぼんぼんものを捨てて,最終的に押し入れの上段分くらいはものがなくなりました.めでたしめでたし.

…ではなく,重要なのはその先.ものを捨てて何が見えてくるか.

まず,本当に自分にとって必要なものって何なのかが見えてくる.ものだけではなく,精神的にも.ものを捨てる習慣が身につくと,たとえば仕事であれば,自分にとって無駄な業務が見えてきて,それをなくそうと思ったりするわけです.今までも無駄な業務を改善しようとはしてきていましたが,それがさらに加速した感じ.

また,そもそもものを持たない,という気持ちになります.世の中便利なものが一杯あふれていて,それらを購入すればいろんなことが簡単にできるようになります.でも,その便利は本当に必要なの?と.そして,その便利がなくなったときどうするの?と.

蛇口をひねれば水道から水が出てくるような環境ですが,東日本大震災の時にそれが当たり前ではないとおそらく全国民が気づきました.当たり前のことが当たり前でなくなったとき,本当に必要なものは何か.レンジで簡単に調理ができることと,水が飲めること.最終的にどちらが大事なのか.当然,水をのむことです.食料がなければレンジだってただの箱です.

じゃあ,この当たり前の環境を,当たり前として受け止めるのではなく,感謝して受け取ろうではないか,そんな心境になっています.水道から水が出る.スーパーで年中野菜が買える.スイッチを入れれば暖房がつく.トイレはウォシュレット.その便利を受けるなと言うことではなく,特別なことと受け止めること.そう考えるだけで,日々の生活の中で,自分にとって本当に重要なものは何かということを考える癖がつきます.

ということで,今は結果的になんだか節約魔みたいになってきました.うちの家族の誰に言っても「あんたがそんなに片付けられるわけがない」とは言いますが.まあ事実,きれいさは所詮世間並みかと思います(笑)それより何より心境の変化が大きいです.

ま,つまりこんな思考の流れが断捨離ですよね.断捨離の“捨行”で終わってしまうと,それは単なる片付けで終わってしまう.ただ,最後の“離行”つまりものから離れるところまでいければ,より解脱に近づくのではないでしょうか(別にわたしは仏教に帰依しているわけではないですが).

*断捨離という言葉はやましたひでこさんが商標登録をしているそうです.
 元々はヨガの断行,捨行,離行から来ていると思います.

2013年1月8日火曜日

非日常としての旅

大町からみる山並み
今日は電車に揺られて大町まで出張に行ってきました。誰かと一緒に行くときは車に乗せていってもらうのですが、一人の時は電車です。窓からの景色もいいですが、駅から歩いていく途中に見える景色は、夏も冬もすばらしい!定点観測ではありませんが、毎回写真を一枚撮っています。


旅が好きです。…なんていうと、本当の旅好きに怒られそうなくらいに土日はひきこもりですが、ふらっとどこか遠くに行くのが好きです。特に一人で。
旅行っていうと、有名な観光地を見て、写真を撮って、現地のおいしいものを食べて。それらをなるべく効率よく回るために、交通手段などを綿密に計画を立てる。食事も外れがないように、インターネットの口コミ情報をチェック。観光スポットも下調べをして、「へーこれがあの有名な!」なんて言ってみたり。

そんな旅行もそれはそれでいいんですが、俺が好きなものとは違います。
とりあえず、行きと帰りの切符だけ買って、あとは野となれ山となれ。どこに行くかは風任せ。駅で聞いて地元の人しか行かないところに行ってみたり、看板で見つけた誰もいかないような博物館に行ってみたり。そういう中で、新たな発見や出会いがある旅が楽しくて。飯がまずくてもいいじゃない、あとで話のツマになれば。

そういうことをやるのには、一人旅が一番です。時間に縛られないし、好きなところに行けるから。寝坊したって誰も怒らないし、時間がないと焦ることもないし。のんびり街並みでも眺めながら歩く。そんな一人旅が好き。

この前、東京に行ったときも、品川でたまたま通りがかりに発見した物流博物館なるものに。入場料は100円!当然?あまり期待していなかったけれど、ヤマトや佐川など各物流会社の制服が展示されていたり、物流映画(そんなものがあるんです!)が上映されていたりと、普段有り得ない世界に溶け込むことができて、非常に満足でした。

日々の生活を振り返ってみる。計画を立てて、その通り実行して、大満足!っていうことは、普段の生活の中でやっているもの。仕事しかり、日常しかり。言ってしまえば、飲み会だって、幹事がいて挨拶があって締めの言葉があってと、ある意味計画性に基づいて行動しているわけです。

旅はそういう場からの解放だと思っています。非日常への飛躍。計画的な無計画。良い景色が見られたり、おいしいものが食べられたりも重要だけど、一番は日常の枠組みからの解放かな。

こんなことができるのも、周りの方が親切にしてくれるからで(宿も決めずに旅にでたりするので)、それに感謝しつつも、これからもそんな旅ができたらなぁと思います。つまりまた甘えますってことでww

(まだ海外には行ったことがないので、今年は行きたいなぁ。)

2013年1月7日月曜日

自分って必要? - コミュニティー依存症 -


「自分は必要とされているのか」という問いについて考えてみたい.

こんな場面がよくある.
飲みの誘い:これを断ったら次誘われないのではないか?
仕事:この仕事は俺にしかできない.明日は絶対休めない!
SNS:毎日書き込んでたのに急に辞めたら変だと思われないだろうか?
つきあい:毎年○○してあげていたのだから,今年もやらなきゃ!
等々.

あるコミュニティーの中で,自分は必要とされているという実感に伴って,なかなかそこから抜け出せなくなるという現実.こういう現象を勝手に"コミュニティー依存症"と名付ける.そのつながりがとげれたときに,人間は一気に落ち込んでしまう.

飲み会に毎回参加していたのに,あるとき突然誘われなくなった.プロジェクト途中での突然の異動.SNSでの無反応.つきあいに関する断り….
こんなことがあったとき「もしかして自分は必要ないんじゃないか」と思ってしまう.

そう,「自分が思っているほどには」社会は自分のことをそんなに必要としていない.

去年の春から秋頃にかけて,一時ツイッターを中断していた時期があった.ちょっと理由があり,ツイッターにかけている莫大な時間がばからしくなったのだ.当然,リアルのつながりとは別に,ネット上でもそれなりのコミュニティーができていたので,やめるとその世界が消えてしまうのではないかという軽い恐怖があった.しかしそんな俺の危惧はどこ吹く風.当たり前だが,俺がいなくてもなんてことない.みなは同じようにつぶやくし,戻ったときには同じように相対してくれる.

仕事もそう.自営で一人でやっているというなら別だが,会社という組織の中で,自分一人が休んだくらいでつぶれるなんてことはそうない.顧客だって人間な訳だし,熱が40℃あるのにどうしても出てこいってことはない(と思いたい….)むしろ,組織の中で自分しかできない仕事を作ることの方が問題かと思う.

年末年始に年賀状を出した人も多いと思うが,それだって一年返さなかったぐらいでどうこうなるわけではない.また次の年にひょっこり書けばいい.もしそれで切れてしまうような関係だったら,もうそれまでだったということだし.

つまり,「こうしなければならない」と思い込んでいるのはあくまで自分であって,それに伴って「自分は必要ない」と思い詰めるまでいってしまうのも自分.他人はそこまで自分に依存していない.必要ない,とまでは言わないが,要は何とかなる.逆を考えてみればいい.普段きっちりやっていて,仕方ない事情で来られなかった人,抜けた人に,「大変だね」と声はかけても,「お前はもうだめだ!」という人はいないだろう.コミュニティー依存症の人間は,自分がコミュニティーを支えているという自負があるが,実はそこから排除されることを極度に恐れているだけ.そのコミュニティーがなくなると,自分自身が否定されたような気分になる.

ただ,昔の村八分のように,そこから抜けたらもう生きていけないようなことはないんだし,「自分は自分」とコミュニティーから自分を解放してもいい.案外すんなり行く.その分の時間,精神をもっと別の,自分を成長させることに使ったほうがよい.新たなコミュニティーを見つければ良い.

わたし自身,学校・部活・町内等々,いろんなコミュニティーに所属してきた.今でもつながっているものもあれば,切れてしまったものもあるし,再開したものもある.新しいつながりもできる.自分はどこかのコミュニティーの人間だ,と思わずに,ただその一瞬を大事に生きることが重要なんじゃないかなと思う.これぞ究極の一期一会と思うわけです.まあ,こんな生き方していて他人が自分のことをどう思っているかは分からないけれど,それはそれ,俺は俺.

タイトルとはちょっとずれてきたけど,今日はこの辺で.

飲みの誘いを断れない飲みコミュニティー依存症のわたしより

2013年1月6日日曜日

日本の技術力という幻想?コクヨのパクリノートに思う.

コクヨが,中国への進出への足がかりに,自社のパクリノートを作っている会社と事業提携?して,かつパクリノートの生産も続けているという記事.去年の記事ではあるけれども.

中国で販売されているGambol(左)とコクヨの2代目Campus(右)

中国で自社のパクリノートも生産するコクヨ戦略の思わぬ効果
http://sankei.jp.msn.com/west/west_economy/news/121229/wec12122907010000-n3.htm

中国本土でのブランド認知度の高いGambolを受け入れて,利用するというコクヨの寛大さとしたたかさがすごい.ただ,戦略としては正しいという気がする.

ここで,思ったこと.これで,「日本の技術がまねされた!中国ひどい!」ではない.つまり,自分たちが独自技術と思っていたものが「まねできるもの」だったということ.ものづくりという観点からすると技術的には同レベルに到達していると考えることができる(知的財産権の関係には疎いので,特許という観点からの言及は避けるけれども.)いきなり中国の話に飛ばずに,日本の家電で考える.同じような製品が山ほどあって,見比べて,何が違うのか.はっきり言って素人には分からないレベル.以前,電子レンジを買うときに,某家電メーカーの販売員に「で,結局各社何が違うんですか?」と聞いたら,「実使用上で問題になる性能ではほとんど変わりありません」と.メーカー側がそういうんだから間違いないと思われる.結局製品は,かなり革新的な部分が変わらない限り(たとえばガラケーとスマホの違いのような),最終的にはほとんど相違ないものになっていってしまう.スマホだってすでに,電池の持ちが若干いいとか,スペック的にはそんな程度の違いしかなく,後はマニアが喜ぶような機能がついているだけのような気がする.残りはコスト,ブランド力の勝負になってくる.

日本はブランドの展開力がないのかなと言う気がする.「消費者はあくまで製品をみて買ってくれる.いいものを作れば自然と売れる」ということはあり得ない.結局,製品を作るのも会社という人(注:会社は法人として人として位置づけられています),販売するのも人,買うのも人なので,そこの信頼関係がきっちり成り立たないといけない.マーケティングの肝というのはまさにそこにあるんじゃないかなと思う.同じ目線で信頼関係を築く.高すぎても低すぎてもだめ.今現在,日本の製品がブランド力を持っているのは,以前の日本は世界とそういう関係を築けていたのではないかと.それに陰りが見え始めてから「日本の技術力はトップだ」という思いにかられ,どんどん技術先鋭という状態に陥ってしまったのではないだろうか.

中国の技術力と日本のものとが完全に同列だとは思わない.ただ,有意差はないと認めた上で,今までとってこなかったような,このコクヨのようなブランド展開をするのが吉と考える.いつまでも「日本の技術力」の幻想にすがっていてはだめだ.

本当は,「日本の・・・」とか言っている時点ですでにだめだと思っているのだが,それはまた別のお話.

なぜブログを始めようと思ったのか

ブログとは.Wikipediaによると,

 『狭義にはWorld Wide Web上のウェブページのURLとともに覚え書きや論評などを加えログ(記録)しているウェブサイトの一種』
だそうな.俺のやりたいこととはちょっと違うのではあるが,多分広義のブログというものには当てはまりそうな気がするので,特に気にしないことにする.

さて,一年半ほどTwitterを続けてきて(途中休止含め),22000近い言葉をまあ悪く言えば吐き捨ててきたわけです.Evernoteに一日のツイートをまとめて送信という,ツイエバなんてサイトも使ってはみたものの,結局未整理のノートがどんどん増えるだけで,役に立ちそうにない.かといって,Facebookみたいな絵日記のサイトに投稿するほどのことでもないし.脳みその雑感のようなものがあふれているわけです.

うちの母親が俺を評するに,「あんたは人との関わり合いの中で生きる人だ」と.その通りと言うことを最近リアルでもネット上でも実感.結局コミュニケーションがないとおもしろく思わないんだよね.

ということで,見られるか見られないか分からないような,でもきっと誰かが見ているだろうブログに随想?のようなものをアップすることで,自分の脳みその整理と文章能力の強化を図ろうかと思うわけです.なるべくなら一日一回は更新したいものですな.

では,飲みに行って参る.

【参考サイト】
Wikipedia: ブログ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AD%E3%82%B0

ツイエバ: 日々のつぶやきをまとめてEvernoteに記録してくれるサービス.
プロフィール画像も保持したまま可能.
http://twieve.net/