2013年2月6日水曜日

余白のないノート −スマートフォンを持つことで、暇な時間という余白を失っている

先日、出張帰りの電車の中で、スマートフォンの電池が底をつきた。たかだか半日の出張だし、電池が切れるなんてことは想定していなかったので、読む本なども持参しておらず。さて、どうしたものか。思えば、つい十五年前までは、こんな状態が普通だったんだなぁ、と考える。

ニュース、音楽、動画やゲームなど、あらゆるコンテンツが、どこにいても手に入る。クラウドサービスを使えば、同じものがどこでも閲覧できる。メールやSNSで、地球上のどこにいても他人とつながっていられる。便利だし、その便利さを否定する気は全くないわけだけれど(かく言う私もGoogle先生に魂を売っているわけで)、このせいで、人間は暇な時間の過ごし方を忘れてしまったのかな、と思う。

先週末は、沖縄で過ごしていた。やることが色々とあって、割りと忙しい…はずだったのだが、沖縄の気候、人がそうはさせない。時間の流れは非常にゆっくり。何をするわけでもなく、ぼーっと過ごしているだけで、いつの間にか夜に。何かをなさねば!という強迫観念はなく。リラックスとはあんなことを言うんだろうなぁ。

対して、その前日までいた東京。満員電車に詰め込まれた無数の乗客は、3分おきに電車に飛び乗り。階段が近い入り口付近はぎゅうぎゅう詰め。小走りに近い速度で道を歩き、顔は厳しく、飲み屋はくたびれたサラリーマンのグチであふれている。そういう無数の人間の努力によって日本経済は支えられているわけで、ムゲに批判はできないのだけれども。でもそれが、本当に持続可能で創造力のあふれる社会につながるのか、とふと疑問に思った。

ノートにアイデアを書き込むためには、余白が必要である。スマートフォンという高性能機器を常に持ち歩くことで、暇な時間の過ごし方を忘れた日本人は、余白のないノートのようなものだ。

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