2013年2月19日火曜日

初心者だからといって基礎から教えるのは嫌だなぁ。

地域の和太鼓連に入って三年ほどたつ。入った頃は、うちの連自体もそんなに上級者!という訳ではなかったが、太鼓の頭の人脈のおかげで、様々な発表の舞台を与えられ、鍛えられてきた。おかげ様で、今年は松本城太鼓祭りに参加させていただくまでになった。ありがたいことである。

活動を続けていると、新しい人も入ってくる。今回、新たに三人ほどの奥様が我が連に加わった。新人が入るくらいに有名に?なったってことかな。

さて、私自身が入った時とは異なり、今では連自体の太鼓レベルも手前味噌ながらかなりのレベルに。少なくとも、一回も叩いたことない人間が、いきなりついて来られるようなレベルではなくなってきている。新人三人も、太鼓は最初にちょっと叩いて、あとはタイヤにガムテープを巻いた簡易太鼓で曲覚え。それから最後に叩く、と言った教え方である。指導は先週までは頭に任せっきりだったのだが、本日私が担当することになった。

もうすでに三、四回ほど練習に来ており、ある曲を一通りは叩けるはずなんだけど、何か楽しそうではない。好きで入ったはずなのに、と思ったが、まあタイヤじゃなぁ、とも思いつつ。でも、本当の理由は違うようだった。要は、譜面を追って叩くことばかりに精一杯になっており、それが曲なのか記号なのかわからない状態で叩いていたのだ。

そこで、まずは曲の入りから終わりまで、ぼんやりと全部教える。強弱を教える。曲の題名から、こういうイメージで叩くと教える。声を出そうと教える。そうして、30分ほどで、何とか一曲通して叩けるようになった。まあ、そこまで教える気はなかったんだけど、できたんだからまあいいか、ってんで、連のメンバーと曲を合わせてみる。前回までは譜面ばかりみてガチガチだったのに、今回は声を出し、何となくだが最初から最後まで通せた。大きな進歩である。

ここで言いたいのは、教わる側を決して侮ってはいけないということ。初心者だからここは難しいので、ここは飛ばして次をやりましょう、では、教わる方はいつまでも初心者。初心者だからここは難しいので、とりあえず間違ってもいいんでやってみますか!とすれば、できなくてもまあダメージは受けないし、できたら一気に成長する。初心者だから基礎をみっちり、ではなく、初心者だからこそ最初から山の上の方を見せておくのだ。1000mの山でもどこに行くのかわからなければ不安でいっぱいだが、2000mの山でも、最初から頂上が見えていれば頑張れるものだ。

野球だったら走り込み、水泳だったら泳ぎ込み、太鼓だったら打ち込み。この基礎が大事なのは当然。でもそんなつまらないものを「いつか役に立つ!」と延々とやらせても、つまらないし、それでその競技が好きになってもらえるとは到底思えない。まず好きになる。それで、好きになって基礎の重要さに気付かないなら、その人はそれまで。でも、その人はきっとその競技を嫌いにはならないだろう。でも、最初から基礎ばかりでつらくて辞めた人はどうだろうか?ハンパ者の烙印を押され、その競技を嫌いになるかもしれない。

昨今、体罰が問題になっているが、これは明らかに後者。辛い思いをすればいつか報われる。その方が、スポーツを楽しくやろう、デキる奴はどんどん頑張れ!よりよっぽど綺麗事。

人にものを教えるときには気をつけたいことである。

2013年2月17日日曜日

伝統は二年で形作られる ~仙台一高共学化,北海道大学応援団云々

高校は,仙台第一高校という,いわゆる伝統的男子校に属していた.校則もないし,私服もない.自主自律の精神で,自由を重んじる校風だった.それは非常に心地よく,好き勝手やらせてもらっていたわけで.

さて,その伝統的男子校も,2010年度から共学となった.これに関しては,宮城県教育委員会が共学化の話を持ち出してからというもの,OB,在学生から猛反発があった.要は「一高の伝統的な文化が失われる.ひいては自主自律の精神まで」という声.どうしてそこまで極端な話になるのか,と一高が育てた自主自律の精神を疑うわけだが,それはまたの機会に.

では,現状の共学化された新仙台一高はどうだろうか.Twitterで在学生と交流を持つ機会があったが,少なくとも自分たちが所属していたときとやっていることはまるで変わっていない.女子もエンジのジャージを着て,大声で校歌を歌い,ストームをし,下駄でアーケードを歩き回る.細かいところは変わっているんだろうけど,そこに差異を見いだせるほど一高文化には精通していない.

また,自分たちのころにはなかった文化もあるようだ.一高には独特の一高体操というものがあり,三年生がそれを一年生に教えるというのが自分たちの頃は伝統だった.今もあるのかと尋ねてみたところ,なんと一年生が三年生に土下座して教えてもらうように頼む,というのが「伝統だ」という.これには驚いた.そんな超体育会系の文化はなかった.五年下の,同じく一高卒の愚弟に聞いてみたところ,同じく「そんなことやったことない」と.わたしが卒業したのがもう十年以上前だということを考慮しても,この伝統は少なくとも五年以内に作られた伝統なのでは,と推定される.この伝統の是非は別として,変えるべきならそのうち無くなるだろうし,楽しかったら続くだろうし.それは外部がとやかく言うことではない.

大学時代は北海道大学応援団に属していた.100年以上続いている団体で,まさに「伝統の権化」と言われそうな骨董品のような団体ではある.しかし,内部的には様々な変革があるわけで.

その一つが,チアリーダーとの合同応援.北大の応援団は,他の大学の応援団とは違い,現在チアや吹奏を内部組織として持っていない.吹奏は応援吹奏団という別団体がある.これだって,自分が入団した頃はめちゃくちゃ仲が悪く,とても一緒に応援するというレベルではなかったのだが.それに加えて,チアリーダー部が一緒に応援したいと言ってきた.チアリーダー=応援と思われがちだが,大学のチアリーダーはほとんどが競技チア.つまり,大会に出るためにチアリーディングを練習している団体で,アメフトなどの試合に招待されて踊っている,という団体である(主観が多少入っているため正確ではないかも).その連中が応援したいと言うことで,少ないながらも応援団内は大議論.結局,紆余曲折の後に受け入れた訳で.

実際応援に行ってみると,近しいOBは「チアに応援しきらせるなんて,俺はどうかと思う」と.これは予想の範疇だった.が,年寄りは「女子が増えて結構」と.え?結局そんなもんか,と.伝統なんてそんなもん.年寄りには,「チアが入って応援がどうなる」なんていう感覚すらないのかもしれない.それを,「応援団とはこうあるべき」と考えていたのは,結局自分たちと,その近隣のOBだけだったという.現在チアと一緒に活動しているかは知らないけれど,あれは伝統というものを見つめ直す良いきっかけになったなと.

さて,タイトルに戻る.高校は三年間,大学は四年間しかない.二年続けばそれはもう在学生にとっては,学生生活の半分以上やっていることであり,それはすでに伝統となる.具体例.たとえば,ある部活で「今年から新入生は歓迎会の時に一発芸をやらせよう」としたとする.その部活にとって,それは新たな試みではあるが,新入生にとっては全てが新たな出来事であって,一発芸が昔からあったものなのかどうか判別しようがない.その新入生が二年目になったときに,「去年俺がやらされたし,今年もやろう!」となれば,それはすでにその部活の「伝統」となる.こうやって,えらく単純に,簡単に伝統というものは形作られる.これが十年続けば,もう明確な「伝統行事」になるわけで.こう考えると,伝統というものはさほど大したものではない,という気もする.

ただし,伝統は続けば続くほど形骸化する恐れがある.上の例で言うと,最初は「緊張している新入生に一発芸をやらせて,部活の雰囲気に入りやすくしてもらおう」とい意図で始まったとしても,これが伝統行事となってしまうと初期の精神は失われ,「おもしろくないやつは罰ゲーム」という流れにもなりかねないわけで.「俺の頃はあんなにおもしろかった」と懐古主義に陥って,下を押さえつける輩も出るだろう.本末転倒も甚だしいが,案外こういった現象は所々にあるのではないだろうか.

では,なぜこういった伝統は変わっていかないのか.これは,変える方が続けるより難しいからだ.新入生歓迎会で一発芸をやらせておけば,場はつなげるし,上級生は満足するし,自分も偉そうにしていられる.これを変えるとなったらどうだろう.「何で今年はやらせないんだ!」という上級生の突っ込みにも耐えなければならないし,新人とより会話を持たねば場ももたない.そんなリスクを冒してまで変えるメリットを見いだせない,ということだろう.「伝統を守る」というのは「伝統を変えるのは面倒」ということの裏返しである.

伝統を批判しているわけではない.伝統の形骸化を批判している.伝統とは本来,その精神を引き継ぐもので,形式を引き継ぐものではない.自分の日常でも,継続的にやっているものは一体何のため?と考えてみると,案外「続けているし,やめるのが面倒」というものが多いことに気がつく.ライフスタイル,なんてかっこつけた言葉がはやっているが,スタイルなんて意思さえあればいくらでも変えられるのである.継承すべきはそのスタイルが持つ精神である.

…俺も「夕飯で酒を飲む」という形骸化したプロセスを見直そうかな.

2013年2月9日土曜日

日本酒飲み党

日本 酒飲み党 公約

私がソーリ大臣になった暁には、

まず成人を18歳からにし、選挙権、飲酒権を18から与えます。

何ら財源になっていない酒税を撤廃します。

あるチュー及び飲酒事故を撲滅すべく、教育課程に、正しい酒の飲み方を加えます。

飲酒運転は見つけ次第免許取り消し、かつ10年間の禁酒プログラムに参加してもらいます。また、飲酒運転発生の根本対策として、代行補助金制度を設けます。

酒を飲めない人に飲酒を強要した場合、アルハラ罪として一ヵ年の禁酒を義務付けます。

酒にかかる関税を0にします。

肴は炙ったイカでいいです。

「飲んだ時にした約束なんて!」と、忘れたからといって約束を保護にした場合、違約金を払ってもらいます。

「酔っているからってひどい!」と、酔っぱらい相手にまくし立てる素面の人は、ちょっと面倒です。

お酒はぬるめの燗がいいです。

飲み放題にビールと言って発泡酒を入れるのを禁じます。発泡酒の場合は必ずその旨書くこと。

サッポロソフトは工業用アルコールに分類します。

道で寝ている酔っぱらいには優しくしましょう。

飲み屋のトイレの数は席数に応じて比例配分制とします。

酒ではなく、酒を飲む場が好きだ、という人は、飲まずに僕にお酒をください。

浦霞禅は最高の食中酒だと思います。

「駅前」という言葉に心躍ります。

「ウタゲジャー」を世界共通の乾杯言語とします。

云々

とまあ、何が言いたいかというと、みんな楽しく飲もうよってことです!

2013年2月6日水曜日

余白のないノート −スマートフォンを持つことで、暇な時間という余白を失っている

先日、出張帰りの電車の中で、スマートフォンの電池が底をつきた。たかだか半日の出張だし、電池が切れるなんてことは想定していなかったので、読む本なども持参しておらず。さて、どうしたものか。思えば、つい十五年前までは、こんな状態が普通だったんだなぁ、と考える。

ニュース、音楽、動画やゲームなど、あらゆるコンテンツが、どこにいても手に入る。クラウドサービスを使えば、同じものがどこでも閲覧できる。メールやSNSで、地球上のどこにいても他人とつながっていられる。便利だし、その便利さを否定する気は全くないわけだけれど(かく言う私もGoogle先生に魂を売っているわけで)、このせいで、人間は暇な時間の過ごし方を忘れてしまったのかな、と思う。

先週末は、沖縄で過ごしていた。やることが色々とあって、割りと忙しい…はずだったのだが、沖縄の気候、人がそうはさせない。時間の流れは非常にゆっくり。何をするわけでもなく、ぼーっと過ごしているだけで、いつの間にか夜に。何かをなさねば!という強迫観念はなく。リラックスとはあんなことを言うんだろうなぁ。

対して、その前日までいた東京。満員電車に詰め込まれた無数の乗客は、3分おきに電車に飛び乗り。階段が近い入り口付近はぎゅうぎゅう詰め。小走りに近い速度で道を歩き、顔は厳しく、飲み屋はくたびれたサラリーマンのグチであふれている。そういう無数の人間の努力によって日本経済は支えられているわけで、ムゲに批判はできないのだけれども。でもそれが、本当に持続可能で創造力のあふれる社会につながるのか、とふと疑問に思った。

ノートにアイデアを書き込むためには、余白が必要である。スマートフォンという高性能機器を常に持ち歩くことで、暇な時間の過ごし方を忘れた日本人は、余白のないノートのようなものだ。