2013年8月6日火曜日

思考を小学生に合わせ込むことで見えてくる個性

和太鼓や町内会で様々な年代の人間と接したり話したりする。そういう時には、なるべく自分の精神年齢をそれに合わせて変化させるようにしている。60代としゃべるときは60代になって、3歳児としゃべるときは3歳児の思考で(3歳児の思考なんてリンクできるの?というツッコミはなしで)。

そういう手法をとっているせいか、最近小学生に、道端で会うと大声で「ほりちゃーん!」と名前を呼ばれたり、別れ際にハイタッチを求められたりする。多分、彼ら彼女らにとって俺は近所のおっさん枠ではなく、愛すべきバカな同胞として向かい入れられている。だいたい30歳のおっさんが半分ムキになって小学生を追いかけまわしたりするわけで、いつも大人に「静かにしなさい!」と言われている奴らからすればおかしな人種なのだろう。

俺もただ馬鹿みたいにそういうことをやっているわけでもない。小学生レベルまで思考のレベルを落とすと得られるものも少なくない。

大人と彼ら彼女らは、まず身長が全然違うので、もちろん目線が違う。当然同じものを見ても見え方が違うわけで、可愛いと思うものもかっこいいと思うものも違う。それを「子供っぽい」と片付けてしまうのは簡単だ。逆に、その感性は大人が年月を過ごすうちに捨ててきてしまった感性とも言える。その感性に触れると妙に新鮮で懐かしい感じがするのだ。子供で癒される、というのはそういうところから来ているのかもしれない。

そして何より、その感性が子供各自によって全く違う。他人のものを欲しがる(兄弟などは特にそうだが)奴らもいるが、彼らは彼らなりの感性で「かっこいい」「かわいい」を決めている。個性なんてもの元々備わっているのだな、とつくづく思う。

なぜその個性が大人になって発揮されないのか。それを活かして伸ばす教育というのがいかに難しいかということだ。個性を大事に、といって好き放題やらせりゃいいかというと、そんなことはない。善悪の区別はきっちり理解、判断できるようにならなければならない。

そのためには当然それの模範となるべき大人が理解していなければならないわけだが。

重要なのは、個々の事象についていいか悪いかを理解させるのではなく、どういうことが良くて何がいけないのか、自ら判断できる力なり基準なりを学ばせることだと感じる。すべてのものごとを、最終的に決めるのは自分である。その決断の方向がいわゆる個性につながると思う。

日本の場合は、その判断を教える際に、どうしても「先生に怒られるからやめなさい!」「誰もそんなことやってないでしょ!」となってしまいがち。それが、確実に個性を奪っている。誰かがやっているから、やっていないからいい悪い、ではないのに、そう教えられているからその基準でしか判断できなくなるわけだ。

いったんこういう判断基準になると、いざ個性をもて、と言われても、単なる反発として「みんなと違うのが個性」と勘違いするんじゃないかと思う。個性ってのは、「自分がやりたいことを殺さないで育てる」ことにあると思うのです。これはまさに教育。個人の決断する力を育て、その決断を尊重する。その個人の判断基準は当然個々で違うわけだから、全員に「正しいことは正しい」といったような教え方ではいけない。教育自体を個性に合わせる必要がある。

ただし、そんなのを学校に期待するのは無理な話である。何十人もの生徒相手に教育を個性化するような人がいたら、多分その人学校の先生にとどまる器じゃない。かと言って親がそこまで客観的な教育を出来るかはわからない。だからこそ、個別塾が大学受験専門生を生み出す機関ではなく、個別の決断力を上げる、個性を育てる機関になるべきだと思う。塾=学校より詳しく勉強を教えてくれるところ、という縮図なのであれば義務教育の意義を考えなければならない。

子供たちは大人が思っている以上に考えているし、感じるし、独自の判断で多くの決断をしている。彼らをなめずに、一顧の人間として尊重し、その上で判断する能力を育てることが大事だと思う。