2013年1月7日月曜日

自分って必要? - コミュニティー依存症 -


「自分は必要とされているのか」という問いについて考えてみたい.

こんな場面がよくある.
飲みの誘い:これを断ったら次誘われないのではないか?
仕事:この仕事は俺にしかできない.明日は絶対休めない!
SNS:毎日書き込んでたのに急に辞めたら変だと思われないだろうか?
つきあい:毎年○○してあげていたのだから,今年もやらなきゃ!
等々.

あるコミュニティーの中で,自分は必要とされているという実感に伴って,なかなかそこから抜け出せなくなるという現実.こういう現象を勝手に"コミュニティー依存症"と名付ける.そのつながりがとげれたときに,人間は一気に落ち込んでしまう.

飲み会に毎回参加していたのに,あるとき突然誘われなくなった.プロジェクト途中での突然の異動.SNSでの無反応.つきあいに関する断り….
こんなことがあったとき「もしかして自分は必要ないんじゃないか」と思ってしまう.

そう,「自分が思っているほどには」社会は自分のことをそんなに必要としていない.

去年の春から秋頃にかけて,一時ツイッターを中断していた時期があった.ちょっと理由があり,ツイッターにかけている莫大な時間がばからしくなったのだ.当然,リアルのつながりとは別に,ネット上でもそれなりのコミュニティーができていたので,やめるとその世界が消えてしまうのではないかという軽い恐怖があった.しかしそんな俺の危惧はどこ吹く風.当たり前だが,俺がいなくてもなんてことない.みなは同じようにつぶやくし,戻ったときには同じように相対してくれる.

仕事もそう.自営で一人でやっているというなら別だが,会社という組織の中で,自分一人が休んだくらいでつぶれるなんてことはそうない.顧客だって人間な訳だし,熱が40℃あるのにどうしても出てこいってことはない(と思いたい….)むしろ,組織の中で自分しかできない仕事を作ることの方が問題かと思う.

年末年始に年賀状を出した人も多いと思うが,それだって一年返さなかったぐらいでどうこうなるわけではない.また次の年にひょっこり書けばいい.もしそれで切れてしまうような関係だったら,もうそれまでだったということだし.

つまり,「こうしなければならない」と思い込んでいるのはあくまで自分であって,それに伴って「自分は必要ない」と思い詰めるまでいってしまうのも自分.他人はそこまで自分に依存していない.必要ない,とまでは言わないが,要は何とかなる.逆を考えてみればいい.普段きっちりやっていて,仕方ない事情で来られなかった人,抜けた人に,「大変だね」と声はかけても,「お前はもうだめだ!」という人はいないだろう.コミュニティー依存症の人間は,自分がコミュニティーを支えているという自負があるが,実はそこから排除されることを極度に恐れているだけ.そのコミュニティーがなくなると,自分自身が否定されたような気分になる.

ただ,昔の村八分のように,そこから抜けたらもう生きていけないようなことはないんだし,「自分は自分」とコミュニティーから自分を解放してもいい.案外すんなり行く.その分の時間,精神をもっと別の,自分を成長させることに使ったほうがよい.新たなコミュニティーを見つければ良い.

わたし自身,学校・部活・町内等々,いろんなコミュニティーに所属してきた.今でもつながっているものもあれば,切れてしまったものもあるし,再開したものもある.新しいつながりもできる.自分はどこかのコミュニティーの人間だ,と思わずに,ただその一瞬を大事に生きることが重要なんじゃないかなと思う.これぞ究極の一期一会と思うわけです.まあ,こんな生き方していて他人が自分のことをどう思っているかは分からないけれど,それはそれ,俺は俺.

タイトルとはちょっとずれてきたけど,今日はこの辺で.

飲みの誘いを断れない飲みコミュニティー依存症のわたしより

2 件のコメント:

  1. 「編み物依存症」ってどうですかねww
    なんのコミュニティにも属してないけど、
    ただ編みたい衝動に駆られて何時間も編み続ける…。
    年末くらいからそんな状態ですー (*ω*)ノ

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    1. それはまたちょっと違う気もしますがww
      まあ僕も狂ったようにゲームすることがありますが.

      でもやっぱり,根本には誰かに見てほしいってのが
      あるとおもいますけどねー.たとえばツイッターで
      発表したり.ツイッターも一つのコミュニティですから.

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