2013年2月17日日曜日

伝統は二年で形作られる ~仙台一高共学化,北海道大学応援団云々

高校は,仙台第一高校という,いわゆる伝統的男子校に属していた.校則もないし,私服もない.自主自律の精神で,自由を重んじる校風だった.それは非常に心地よく,好き勝手やらせてもらっていたわけで.

さて,その伝統的男子校も,2010年度から共学となった.これに関しては,宮城県教育委員会が共学化の話を持ち出してからというもの,OB,在学生から猛反発があった.要は「一高の伝統的な文化が失われる.ひいては自主自律の精神まで」という声.どうしてそこまで極端な話になるのか,と一高が育てた自主自律の精神を疑うわけだが,それはまたの機会に.

では,現状の共学化された新仙台一高はどうだろうか.Twitterで在学生と交流を持つ機会があったが,少なくとも自分たちが所属していたときとやっていることはまるで変わっていない.女子もエンジのジャージを着て,大声で校歌を歌い,ストームをし,下駄でアーケードを歩き回る.細かいところは変わっているんだろうけど,そこに差異を見いだせるほど一高文化には精通していない.

また,自分たちのころにはなかった文化もあるようだ.一高には独特の一高体操というものがあり,三年生がそれを一年生に教えるというのが自分たちの頃は伝統だった.今もあるのかと尋ねてみたところ,なんと一年生が三年生に土下座して教えてもらうように頼む,というのが「伝統だ」という.これには驚いた.そんな超体育会系の文化はなかった.五年下の,同じく一高卒の愚弟に聞いてみたところ,同じく「そんなことやったことない」と.わたしが卒業したのがもう十年以上前だということを考慮しても,この伝統は少なくとも五年以内に作られた伝統なのでは,と推定される.この伝統の是非は別として,変えるべきならそのうち無くなるだろうし,楽しかったら続くだろうし.それは外部がとやかく言うことではない.

大学時代は北海道大学応援団に属していた.100年以上続いている団体で,まさに「伝統の権化」と言われそうな骨董品のような団体ではある.しかし,内部的には様々な変革があるわけで.

その一つが,チアリーダーとの合同応援.北大の応援団は,他の大学の応援団とは違い,現在チアや吹奏を内部組織として持っていない.吹奏は応援吹奏団という別団体がある.これだって,自分が入団した頃はめちゃくちゃ仲が悪く,とても一緒に応援するというレベルではなかったのだが.それに加えて,チアリーダー部が一緒に応援したいと言ってきた.チアリーダー=応援と思われがちだが,大学のチアリーダーはほとんどが競技チア.つまり,大会に出るためにチアリーディングを練習している団体で,アメフトなどの試合に招待されて踊っている,という団体である(主観が多少入っているため正確ではないかも).その連中が応援したいと言うことで,少ないながらも応援団内は大議論.結局,紆余曲折の後に受け入れた訳で.

実際応援に行ってみると,近しいOBは「チアに応援しきらせるなんて,俺はどうかと思う」と.これは予想の範疇だった.が,年寄りは「女子が増えて結構」と.え?結局そんなもんか,と.伝統なんてそんなもん.年寄りには,「チアが入って応援がどうなる」なんていう感覚すらないのかもしれない.それを,「応援団とはこうあるべき」と考えていたのは,結局自分たちと,その近隣のOBだけだったという.現在チアと一緒に活動しているかは知らないけれど,あれは伝統というものを見つめ直す良いきっかけになったなと.

さて,タイトルに戻る.高校は三年間,大学は四年間しかない.二年続けばそれはもう在学生にとっては,学生生活の半分以上やっていることであり,それはすでに伝統となる.具体例.たとえば,ある部活で「今年から新入生は歓迎会の時に一発芸をやらせよう」としたとする.その部活にとって,それは新たな試みではあるが,新入生にとっては全てが新たな出来事であって,一発芸が昔からあったものなのかどうか判別しようがない.その新入生が二年目になったときに,「去年俺がやらされたし,今年もやろう!」となれば,それはすでにその部活の「伝統」となる.こうやって,えらく単純に,簡単に伝統というものは形作られる.これが十年続けば,もう明確な「伝統行事」になるわけで.こう考えると,伝統というものはさほど大したものではない,という気もする.

ただし,伝統は続けば続くほど形骸化する恐れがある.上の例で言うと,最初は「緊張している新入生に一発芸をやらせて,部活の雰囲気に入りやすくしてもらおう」とい意図で始まったとしても,これが伝統行事となってしまうと初期の精神は失われ,「おもしろくないやつは罰ゲーム」という流れにもなりかねないわけで.「俺の頃はあんなにおもしろかった」と懐古主義に陥って,下を押さえつける輩も出るだろう.本末転倒も甚だしいが,案外こういった現象は所々にあるのではないだろうか.

では,なぜこういった伝統は変わっていかないのか.これは,変える方が続けるより難しいからだ.新入生歓迎会で一発芸をやらせておけば,場はつなげるし,上級生は満足するし,自分も偉そうにしていられる.これを変えるとなったらどうだろう.「何で今年はやらせないんだ!」という上級生の突っ込みにも耐えなければならないし,新人とより会話を持たねば場ももたない.そんなリスクを冒してまで変えるメリットを見いだせない,ということだろう.「伝統を守る」というのは「伝統を変えるのは面倒」ということの裏返しである.

伝統を批判しているわけではない.伝統の形骸化を批判している.伝統とは本来,その精神を引き継ぐもので,形式を引き継ぐものではない.自分の日常でも,継続的にやっているものは一体何のため?と考えてみると,案外「続けているし,やめるのが面倒」というものが多いことに気がつく.ライフスタイル,なんてかっこつけた言葉がはやっているが,スタイルなんて意思さえあればいくらでも変えられるのである.継承すべきはそのスタイルが持つ精神である.

…俺も「夕飯で酒を飲む」という形骸化したプロセスを見直そうかな.

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